気づくと

王の執務室に立っていた

チェ・ヨン。

 

小柄な王は

いつものように

自筆の大きな絵に向き合い

 

すっかり生気がなくなり

ともするとその大きな躰を

王よりも小さくしている

チェ・ヨンに

背を向けている。

 

 

扉が開いたところまでは

意識があったのに

今、ここに

王の執務机まで

どのようにして

来たのか

まったく覚えのない

チェ・ヨン。

 

 

このような時でも

いつものように顔は動かさず

すっと辺りに

視線をやる。

 

周囲には誰もいない。

 

 

王のアン・ドチも

チェ・ヨンのチュンソクも

そこにはいない。

 

いるのは

自分に背を向けている

王独りだけ。

 

 

少し

ほっとしたチェ・ヨンは

正直に

今の気持ちのまま

 

掠れた小さな声で

 

 

「王様」

 

「迂達赤隊長

チェ・ヨンが参りました」

 

そう告げた。

 

 

その矢先。

 

わずかに王の腕が動き

衣擦れし

 

冷んやりと底冷えのする執務室に

王妃の微かな匂いが

ふわりと舞った。

 

一瞬で、その冷え切った部屋が

ほのかに温かくなる。

 

だが、

その明るい温かさが

今のチェ・ヨンには

痛みとなり

眉をしかめた。

 

 

いつもならば

ぷるんと潤いを帯た

厚めの下唇に

少しだけの笑みを浮かべ

 

瞳の目尻を

わずかに落として

微笑みのしわを二本作り

 

 

「王様」

 

 

そう穏やかに

チェ・ヨンらしからぬ

優しい声で

一言

そう、言う。

 

 

その瞳が語る。

 

 

「王様」

 

「お幸せで、何よりです」

 

「ヨンは嬉しくてなりませぬ」

 

「ヨンの言う通り

いつも手を握り

瞳を合わせ

お二人、仲睦まじく……」

 

「臣下として、これ以上の

喜びはありませぬ」

 

 

「正直に」

 

「王様、ご自分の心に

正直になられたのですね」

 

 

あの漆黒のくるんとした

王にしか見せない若い青年の瞳が

色を幾色にも変えながら

そう言う。

 

 

はにかみ、いつものように

片唇を持ち上げる王。

 

恥ずかしそうに横を向く。

 

だが、再び

チェ・ヨンに向き合い

 

 

「これで」

 

「よいのか」

 

 

と、持って生まれた

威厳を取り戻した瞳で

チェ・ヨンに問う。

 

一つ、大きく

うなづく

チェ・ヨン。

 

満足そうに微笑む王。

 

 

そんなやり取りを

一日

一日

 

そして

また一日と

繰り返し

 

王は、高麗を率いる長として

本来の姿を

取り戻しつつ

あった。

 

 

だが、今の

チェ・ヨンと王。

 

まったく立場が

逆転している。

 

 

跪き

片膝に手を置き

うなだれる

チェ・ヨン。

 

 

胸も喉も瞳も

焦燥感でいっぱいで

乾ききった躰が

 

今にも

あの時のように

 

どさっと

倒れ落ちそうに

なっている。

 

だが、王は

沈黙していた。

 

チェ・ヨンの言葉を

心で読み取ろうと

待っていた。

 

 

「この男。口に出すはずがない」

 

「自分の心情を吐露するはずがない」

 

「医仙のこととなると

あれほどうるさい男が」

 

「自分のこととなると

声にだしたとしても一言だけ」

 

 

「できませぬ」

 

 

「ただ、それだけ」

 

 

「できぬ、そう言い残し

私の元を簡単に去り

医仙の元へと駆けていく」

 

「結局、戻ってくるのに」

 

「そうせずにはいられぬ男」

 

「どうしても二つを手にする」

 

「そんな男」

 

「私の、唯一無二の」

 

「臣下」

 

「チェ・ヨン……」

 

 

チェ・ヨンには王の言葉が

聞こえていた。

 

 

 

これまで自分がしでかしてきた

コトのすべてを

思い返す。

 

 

振り返れば、ありえない臣下なのに

迂達赤の隊長。

 

この職には

なんの未練もなかったはずなのに

結局は再び

ここにいる。

 

自分の女を待たせて。

本祝言もあげずに。

泣かせて。

困惑させて。

 

 

「俺が護る」

「自分の命を賭して」

「だから側にいてくれと」

 

あれほど

言った俺が

このようなことを

しでかして。

 

 

「俺は・・・・・」

 

「俺という男は・・・・」

 

 

「なんという・・・」

 

 

チェ・ヨンの

乾ききった唇から

チェ・ヨンの

嗚咽がもれた。

 

聞き取れぬほどだが

 

崔家の草原で

そこでしか泣くことのできない

その場所で

 

独り、大声で

 

ウンスとあんなにも

愛し合った

その蒼い草むらの中に

突っ伏して

 

草に怒号を押し付けて

泣いていた時の

 

ほんの数千分の一の声だが

確かに同じように

嗚咽を漏らす。

 

 

振り返る王。

 

 

「どれほど…泣いたのだ」

 

「ん? 」

 

「チェ・ヨン」

 

「独りで」

 

「どれほど」

 

 

チェ・ヨンの足元まで

歩み寄り

チェ・ヨンの元に

屈みこんで

そう言った。

 

「どうしてお前は」

 

「いつもそうして」

 

「独りなのだ」

 

 

「どうして」

 

 

「抱え込む」

 

「ん? 」

 

 

「臣下は王には本当の姿を

見せられぬのか」

 

「臣下は王を護るだけか」

 

「だが」

 

「心も躰も病んだ臣下が」

「どうして私を護れよう」

 

 

「今のそなたでは」

 

「何もできぬ」

 

「何一つ、できぬ」

 

「誰も護ることなどできぬ」

 

 

「だから」

 

「いるのであろう」

 

「あの、三人が……」

 

「心配でならず」

 

「だから、お前を護っているのであろう」

 

「まるで影のように」

 

 

首を大きく振るチェ・ヨン。

 

 

「違うっ」

 

「違うのです」

 

 

そう言いたげに

手を床につき

首を振る。

 

 

その床には

 

ぽたり

 

ぽたりと

 

決して見せてはいけぬ

大粒のシミが

 

一つ

 

二つと

 

でき

 

徐々に大きな

円になっていく。

 

それを隠すように

大きな手で覆おうとする

チェ・ヨン。

 

 

「このようなこと

あってはならぬ」

 

「またもや

王の前でなど

ならぬ」

 

「絶対ならぬ」

 

チェ・ヨンは、

 

「もはやこれまで」

 

「ここにいてはならぬ」

 

 

そう想い

力を振り絞り

すっと立ち上がり

王の元を去ろうとした。

 

その時。

 

王は、チェ・ヨンの腕を

どこにそのような力が

あるのかと思うほどの力で

ぐっとつかむと

 

まるでチェ・ヨンが

あの小さき王

慶昌君を抱きしめたように

 

今度は

 

その叔父恭愍王が

チェ・ヨンを

力強く

抱きしめた。

 

まるであの時の

代わりのように

 

自分の倍ほどもある男を

自分の胸の中へしまい込み

その背中に

力強い腕を回し

さらにそこへ押し付ける。

 

 

互いの心臓を

それぞれの胸へ

合わせるかのように。

 

 

 

驚くチェ・ヨン。

 

ひれ伏し

離れようとするが

 

王は決して許さぬ。

 

 

「よいから」

 

「しばし」

 

「このままで」

 

 

そう言い、

王はチェ・ヨンの

弱すぎる鼓動が

確かに脈打つまで

じっと

そうしていた。

 

 

胸を合わせてみると

やはり王が想像したとおり

チェ・ヨンの鼓動は

あまりにも弱々しく

あの時のように

今にも止まりそうに

なっている。

 

 

だが、驚きと焦りも手伝ってか

しばらくそのままを強いているうちに

ようやく

それらしいオトを

たてはじめた。

 

 

満足そうに感じた王は

 

チェ・ヨンの耳に

まるで流し込むように

言った。

 

 

「チェ・ヨン」

 

「そなたは」

 

「チェ・ヨンなのだろう」

 

「高麗の武士」

 

「私の唯一無二の臣下」

 

「迂達赤隊長の」

 

「チェ・ヨンなのだ」

 

「私が全幅の信頼を置いている」

 

「男」

 

「それは、そなたをおいて

ほかになど、おらぬ」

 

「よいか」

 

「そなたは」

 

「そのような男」

 

「チェ・ヨンで」

 

「天界の女人」

 

「ユ・ウンスを妻にした男なのだ」

 

 

「過去がなんだ」

 

「天界がなんだ」

 

「ここは、高麗で」

 

「ユ・ウンスはここを」

 

「お前を選んだのだ」

 

「そうであろう?」

 

「確かにあの三人の男たちは」

 

「すごい」

 

「ともするとそなたよりも

勝っているところもある」

 

「そなたにないユ・ウンスとの

思い出を持っているのも事実だ」

 

「だが、それがなんだ」

 

 

「ユ・ウンスは」

 

「そなた、チェ・ヨンを」

 

「選んだのだ」

 

「未来永劫」

 

 

「そうであろう?」

 

 

「私は、金輪際、二度と言わぬ」

 

「これが、最初で最後だ」

 

 

 

「チェ・ヨン」

 

「ユ・ウンスの男は」

 

「未来永劫、そなた独り」

 

「誰にも構うことはない」

 

「誰にも遠慮することはない」

 

「過去の思い出など」

 

「これからの二人の記憶で

すべて塗りつぶせ」

 

「ユ・ウンスのすべてを

お前の愛で満たすのだ」

 

 

「お前は、そなたは」

 

「チェ・ヨンは」

 

「それができる」

 

「そんな愛し方ができる」

 

「高麗一、いや、天界一の」

 

「男」

 

「なのであろう?」

 

「私の…て…ほんであり」

「私にそれを、見せてくれるのであろう?」

 

「これからも」

 

「ずっと」

 

 

 

 

「優しすぎるのだ」

 

「そなたは」

 

「鬼になれ」

 

「戦いの時のように」

 

「容赦なく」

 

「まっすぐ」

 

「堂々と」

 

「チェ・ヨンの道を」

 

「ユ・ウンスとともに」

 

「歩むのだ」

 

 

 

「でなければ」

 

「私は、許さぬ」

 

「決して、許さぬ」

 

 

「ユ・ウンスと本祝言をあげることを

許さぬ」

 

 

「あの時、そなたはいったであろう?」

 

「私を信じてくださいと」

 

「私の側にいてくださいと」

 

「であれば、必ず守り抜きますと」

 

 

 

「私も同じ言葉を、そなたに言う」

 

 

「私を信じろ」

 

「私の言うことを聞け」

 

「であれば、本祝言を」

 

「許す」

 

「いつでも、準備が整い次第」

 

「執り行えば」

 

「よい」

 

 

 

 

チェ・ヨンは………。

 

 

 

何も言うことができず

まさかこのようなことを

王がして、言うとは。

 

それほはるかに

チェ・ヨンの想像を超え

 

ただ

 

ただ

 

王の衣を濡らすまいと

自分の黒の下衣に

その大きすぎる瞳と

高すぎる鼻と

ぷるんと、だが乾いてしまった唇を

寄せようと

必死だった。

 

 

だが、王は

 

ぐい

 

ぐい

 

ぐいと

 

ますます自分を強く

抱きしめようとする。

 

 

どこにこのような力があるのか。

 

 

チェ・ヨンは再び驚き

争うことなど

許さぬと訴える王に

 

ついには

 

自分の躰の力

すべてを

 

預けた。

 

 

 

「王・・さ・・ま・・・」

 

 

そう、咽び声を

 

絞り出し

 

ながら……。

 

 

 

 

 

 

王様

 

なぜこのような私を

そこまで

 

私は

そのような

男なの

 

でしょうか

 

本当・・に・・・・?