2012.01.26                             http://cafe.daum.net/W-CARPKorea/eEpL/279

 

既に各所で写真や動画が報じられている天福パレード。

真冬のソウル市内に93歳のお父様を引回さなかったのは不幸中の幸い。

 

しかし、代わりに引回されたのは「父母像」、紛れもなく「偶像」である。

しかも、車の前部には「四大聖人像」の偶像レプリカを従えている。

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この愚かな人々は、聖書を読んだことがないのだろうか。

聖書において、どのような意図で偶像が忌み嫌われているか理解できないのだろうか。

拝んでも、拝まなくても、偶像は偶像である(下記聖句を参照下さい)。

もちろん聖書に書いてあるからというのではなく、神の心情においてである。

 

天宙復帰を道半ばにして仮装行列をやっている場合だろうか。

当初メインイベントだった「聖婚式」が強行できなかった場合に備えて

その不手際を埋没させ、食口の注目を逸らそうという意図だろうか。

あまり勘ぐりたくはないが、あまりにも異常な光景に目を疑う。

ほくそ笑むサタンの姿・・・いや、サタンも呆れていると思う。

 

七死復活、宙づりに拷問されるお父様役の模擬者の方にはお気の毒だが、

生身の人間が演じたことで偶像にならずに済み幸いである。

しかし、これが祝賀すべき事件だろうか(下記写真)。

gildongのブログ-20120126dgildongのブログ-20120126a

 

 

そもそも存命中のお方の像を刻むことは、長寿を願うことと正反対の意味がある。

昔の人は写真を撮るのを嫌がったが、同じ理由ではないだろうか。

 

パレードが終わって、あの偶像は何処に安置されるのだろうか。

丁重に保管されれば、まさしく「偶像」の取扱を受けることになる。

粗末に倉庫に放り込まれ、放置されたら、それはそれで問題だろう。

提灯と一緒にお炊き上げにしてしまうのだろうか。

廃品回収業者に処分に出したら・・・

解体されてしまったら・・・

 

だから偶像は始末が悪い。

 

神もみ旨も忘れ、お父様の願いも空しく、恥辱と不信仰の歴史が刻まれた。

 

(ローマ人への手紙1/22)

彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、

朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。

彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。

創造者こそ永遠にほむべきものである。

 

(出エジプト記20/3~)

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、

どんな形をも造ってはならない。

それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

 

(レビ記26/1)

あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。

また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。

またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。

わたしはあなたがたの神、主だからである。

 

(申命記4/16、23~26)

それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。

男または女の像を造ってはならない。

あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、

あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。

あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、

道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、

あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、

わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。

あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。

あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。

 

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