思ったことだけツラツラ書きます。
今回の震災を目の当たりにし、社会的責任とはなんだろうかということについて考えた人は少なくないと思います
この中でひとつ考えてみたいのは、募金ということです。
大企業から零細企業、著名人から一般人まで、多くの団体・個人が募金という形で震災からの復興を援助しようとしています。
この中で頻繁に見られる傾向として「権力者に対する社会的責任の要求」です。
ざっくりと書けば「イチローは何億も稼いでいるんだ、数千万くらい自分で寄付しろ!」という訴えです。
これは単に捉えやすいように例としてあげたのではなく、実際にあったことを例としています。
ここで考えやすくなるように、今回の権力者の定義を「経済的側面」に限定しましょう(実際は社会的側面をはじめとする緒側面との相関関係が明確に見られます)。要するに、お金持ちです。
さらに今回は、社会的責任の要求=募金・寄付の要求に限定しましょう。
このとき、人々はお金持ちに募金・寄付の要求が本当に可能なのかという問題が生じます。
結論として、文字通りの意味では「可能」でしょう。
さきほどの例にも見られるように、実例がさまざまなところで見られています。
しかし、「積極的にするべきではない」という立場を自分はとりたいです。
これは平等で健全な社会を作るための主張です。
お金持ちはいかにしてお金持ちになったか。
その理由の大部分は、個人の努力が占めることが多いでしょう。
ではその個人がなぜその努力の対価として得た利益を他に提供することを、他によって要求されなければならないのか。
もちろん、社会を機能する共同体として維持していくためには制度による一定の拘束力をもった統制が必要になるでしょう。
しかし、今回扱っている要求とはその制度外のことです。
この制度外のことを「要求と同等の行動を自身はできない他者」に対して要求されることがまかり通るのであれば、なにが平等でなんのための制度なのかということになります。
さらに恐ろしいことは、この要求は要求にこたえなかった場合に社会的批判を伴うことです。
この批判によって社会的地位を降下させるのはデメリットですから、かなりの程度で要求が強制力を持つ結果になるということです。
この批判には、ルサンチマンが含まれていることさえ多々あるでしょう。
こういった側面を考慮したときに、積極的に要求するべきではないという結論が生じます。
そもそも、風潮や単なる思想傾向によって集団や個人の行動が部分的にせよ規定されることがあってはならないことは自明です。
ここでひとつ断っておきたいことが、「積極的にするべきではない」のであって「するべきではない」とは言っていないということです。
先に述べた制度とは、想定の範囲内の事例に対処するために制定されたものですから、今回のように想定の範囲外のような事態には迅速に対応できないことが大半です。
よって、要求によって集団・個人が対応できる範囲で募金・寄付をすることは事態の解決に大きくつながります。
だから、要求すること自体は大切なのでしょう。
おいおい、さっきまで要求はあんまりヨクナイ! と批判していたのに 大切ダ! なんて矛盾しているじゃないか、とつっこまれてしまいそうですね。
それに対応するために、ここで今一度はっきりと自分の立場を明記します。
「権力者に対する社会的責任の要求は、強制力を生み出しうる社会的批判を伴はない程度で行われ続けることが大切である」
これでいかがでしょうか。
また、「要求に応えない=社会的地位降下」(これは自分が強く批判する等式)が成立するのと同様に「要求に十分に応える=社会的地位上昇」の等式も成立するでしょう。
降下幅に対して上昇幅はあまり大きくありませんが、これを各集団・個人が逆に利用しようとする態度があっていいと思います。
これについてはソーシャル・ビジネスの展開の背景などに見られるものと同様の傾向が見られさらに掘り下げていくことができますが、それはまたの機会にゆだねたいと思います。
以上、感想文でした(^u^)
いや-、小梅ちゃんとロビンソンとのなうにすごい刺激をうけたなあ笑