ちょっと間隔開いてしまいました。
「とくちゃん」です。(*^_^*)
4浪もしちゃった予備校ばなしの続きです。
4浪もすると「負け癖」みたいなもんがついちゃっていて、
受かる、落ちる、ということにだんだん実感がなくなってしまいます。
おもえばうちの予備校はそんな人が多かった。
そんなの予備校としてはマズいでしょうに。
私の場合、現役・1浪で「一筆も描けない」ほどに潰れてしまってからの回復過程にあったので、
受験シーズンが来ても「ああ、まだ自分は『回復しきっていない』のに試験が来てしまったなぁ」
という焦りも出ないような淡々とした気持ちで2浪目・3浪目の受験をこなし、
そして淡々と全滅していました。
今考えれば親はよくこんな勝手を許したと思います。
協力的とは言い難かったけれど、暴力や威圧的な言葉で辞めさせようとしなかったことに、今とても感謝しています。
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4浪目になるとその予備校が責任を感じて授業料を免除してくれたので、夏一杯くらいでアルバイトを辞めて予備校生に戻ることができた。
小さい一つの予備校に居たにすぎないけれど、さすがに4年も受験生をしていると、わかってきたことがあった。
絵がうまいからって大学に受かるわけじゃない、ということだった。
もちろん学課ができるできないということでもなく、「サイノー」なんて本人が死ぬまで解らないものなんかでもない。
なんというか「大学に入る準備ができた人が受かる」のだった。
それは「覚悟」「決意」というような合格に対するテンションや執着のようなものでもなかった。
もっとこう、「絵に向き合う姿勢」のようなもの、絵と自分の間に「受験」「予備校」「講師の指導」とか変な夾雑物が無ければないほどそういう姿勢、みたいな感じがした。
平らに言うと「自主性」のような感じだろうか。
この絵はこう描こう、今度はこうしてみよう、今回の試みが結構手ごたえがあったので次も続けてみよう、等々、普通と言えば普通に一枚一枚の絵に対しての自主性、創作欲、次の一枚をもっと納得いくものにしていくためのチャレンジ、
「自分自身で伸びていこうとする意志と取組み」がその人に則した自然な形で育ってくる、という感じだったろうか。
そういう姿勢のある人はすっ、とある日いつものその人と違う絵を描いた。
まわりの人の絵ともなにか一枚(一次元?)変わった絵を描いた。
そして何浪もしてテクニシャンで予備校講師もちょっと甘い顔を見せるような多浪生を尻目に大学へ受かっていった。
4浪目、さすがにそういう人になりたいと思った。
それまではやみくもに「また絵が描けるようになりたい」だったけれど、受験を越えてもっと絵と自分が密に会話をして、予備校講師の戯言などには関係なく自分と自分の絵との語り合いだけで伸びていこうと思った。
自分の絵の「良さ」を自分できちんと把握しようとした。
できないところ、でなくて「良さ」「魅力」を足掛かりにして次につなげようとした。
自分の絵の持ち味、癖を生かすように画材を工夫したり(木炭デッサンで殆ど木炭を使わなくなったり)
他の子に向けられたアドバイスでも自分に響くことを率先して導入してみたり
朝2時間早く予備校に行って苦手な石膏デッサンをしたり
自分と自分の絵の間に誰も入れないで自分の判断で自分に必要と思うことをした。
つまり、それがやっと自分で自主的に自分の絵を描くってことだったんだよね。
5回目の受験シーズンを終えて、たった1つだけだけれど初めて大学に受かった。
公立の学校じゃなかったけれど、とうとう5年の間に一度も受験の実技で自分で満足のいく絵は描けなかったけれど、ひとつだけ私を拾ってくれた学校があった。
それが八王子の山の上にあるあの学校。
そこでまた絵画に挫折しちゃって、やったことのない陶芸という素材に突っ込んでいくんだけれど、
それはそれでまた別の話。
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思うんだけれど、結局現役生で潰れないままにマグレで美大に受かっても感性だけで押して描いていくような描き方だったら、結局大学で激しく潰れていたと思う。
だからって4浪もするのもどうかと思うけれど、
全然描けないところから自力で這いあがった経験は、その後制作でどんな壁にぶつかってもちゃんとどうにかする自分の自力を信じる根拠にはなっている。
あと4浪してのタイミングで陶芸クラスに行ったのも日本現代陶芸界の流れ的にもばっちりのタイミングだった。
それより早くても遅くても今の自分はいない。
そういうことだ、すべて。