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私は3人姉妹の末っ子として生まれた。
気づけば、学生時代はずっと姉のお下がりの体操着を着ていた。特に何の疑問も持たずにいた。物を大切にする1歳と4歳年上の姉のお古をもらっても嬉しかった。姉と同じものが着れるようになった自分は少し成長できたかなと思う瞬間でもあった。当時の母は、「あら、もったいない↑↑」(語尾が上がる)が常に口癖だった。必然的に、もったいない=物を大事にする≠貧乏である認識はなかった。母からマイナスな言葉を一切聞いたことがなかった。母はいつも太陽のような存在であった。
小学3年生の頃、お友達の家に遊びに行った。冷蔵庫にオレンジジュース、おやつ、ゲーム、ピアノ、ハープたくさん出てきたことに目が飛び出るほど驚いた。驚いて何も言えなかった。当時の我が家ではジュースやおやつは特別な日に食べるものだった。一本のジュースを3つのグラスに分けて飲む。ポテチ一袋をティッシュ3枚の上に3人分を均等にして分けて食べる。そしてじゃんけんで勝った人から好きな一つを選んで食べるスタイル。正直どれも同じ量なのに、すこしでも多い量を狙って選ぶ瞬間が得した気分で楽しかった。満足だった。みんなが平等なじゃんけん大会が行われるこの瞬間がわくわくした!ここぞとばかりに真剣にじゃんけんをした。この経験から私はじゃんけんは強いです。
小学校高学年に入り、父の前でゲームをすることは許されなかった。頑固親父ならではの考えである。ゲームすると馬鹿になると言っていた。本を読みなさい。本なら買ってあげる。ゲームや漫画は駄目です。そんな訳で、小学時代に流行ったファミコン マリオゲーム以来、友だちとの漫画の話やゲームの話についていけなくなってしまった。何でみんながそんなにゲームで盛り上がっているのか?何で楽しいのかさえ聞かずに、私は1人でも遊べることを探した。私は遊びたいと我がままを言っていた。当時の父は仕事で相当なプレッシャーと戦っていたことを母から教えてもらった。全ては家族を守るためであった。
サラリーマンの父、愛犬のオスのポメラニアン、母は3人を子育てをしながら新聞配達、そして一番上の姉が高校生に入った頃にはパートにも昼間出かけていたことを知った。父が帰宅して、ビールをこっそり買いに行く。当時は買いだめする余裕すらなかったと知った。そんな渦中、我が家は貧乏だったことさえ気づくことさえなく私は能天気に愛犬と過ごしていた。
与えられた環境の中で楽しく一生懸命生きることを学んだ。今の生活が当たり前だと思っていた。例えば、末っ子は姉のお下がりをもらうものだと思っていた。羨ましかった。姉が新しい服や靴を履いてる姿。「私も新しいの欲しい!」と言う。姉は「あんたはまだ早い」と茶化される。歯を食いしばる程悔しかった。「もー」鼻息ぷんぷんしていた。そんなある日、母からある発表会のために新しいワンピースを買ってもらったときは本当に心から嬉しかった。背丈が合わなくなっても大切に着た。「もうそろそろ、この服着なくてもいいんじゃない」と母は言う。私は「まだ、駄目。いいの。着れるかもしれないから取っておいて」と言う。私のお気に入りの一着になった。引っ越しをするまでずっと大切に押し入れにしまっておいた。着る回数は少なかったけど、そのワンピースを見ると何故かわくわくした。笑顔になれた。私でも新しい服が着れる!我慢も大事であることを知った。物を大切にすることを学んだ。本を読むことの大切さを教えてくれた。ゲームにとことんうとくなったけど、確かに生活に支障はなかった。ゆいつゲーセンで得意な分野は、ゴーカードと人形キャッチャー。久々の人形キャッチャで掴んだペンギンの人形は7つ!1回のプレイに全力投球した。真剣だった。どうしたら掴めるか。感覚でしかなかった。やれば出来ると思えた。ゲーセンに年に数えるぐらいしか行ったことがなかった。音が騒がしい場所よりも、ピアノの音や低音の音を好むようになった。
1995年阪神淡路大震災が起こったとき、大阪府豊中市にいた。ものすごい揺れだった。想像してみてください、もしハウルの動く城の中で生活をしていたら、きっとハウルの城は突然こんな風に動くんだろうなと想像ができた。どんな感じかと言うと、何の前触れもなく電車が突然急カーブに入り、手すりを捕まる余裕もない。あれよあれよと左隣の少し日焼けしたマッチョなイケメンの洋服の裾を精一杯握りしめるあの瞬間の揺れです。倒れてたまるものかと精一杯踏ん張る状態です。となりのイケメンごめんなさいと思いながらも、「良かったつかまる場所があって」とホッとする図々しい私。もちろん、「ごめんなさい。助かりました。ありがとうございます。」と一言言って電車を降りる。あんな揺れです。
マグニチュード7.3、その晩から父はバイクで水を運びに行った。母は新聞配達を全てやり終えて帰宅してきた。「なんか地面が波打ってたわ。」と言いながら食事の支度をする。母は強いと思った。現実問題、身の安全を確認した上で、自分が何をすべきなのかいつも優先順位をわかっている。
守るべき家族がいるからだ。
父と母の背中が大きく見えた瞬間だった。
私も何かあったときに、助けが必要な人に、自分以上に苦しんでいる人へ手を差し伸べる事ができる心の余裕をもてる自分に成長したいと思った瞬間だった。





