ではこれらの江戸の末期からの戯作文学は、後の大衆読物小説へつながる以外、日本の近代文学へ何の影響も遺産も残さなかったかというと、そんなことはありません。政治や思想への無関心、社会からの逃避、特殊な閉ざされた世界へののめりこみ、感覚や情緒の偏重、理論性の欠除、新奇な風俗への旺盛な好奇心、負け犬的なコンプレックスなど、文章のユーモアやあそびや粋さを伝奇的性格、虚構性、物語性をうしないながらも、日本の近代文学の中に今日までまぎれもなく受け継がれているのです。11p
散文というつねに功利性、実用性、思想性を含んで成立する小説というジャンルは、時代思想や現実から逃避し自己を超然と守ることが許されないのです。ここに、つねに時代とともに自己をこわしながら進んでいかなければならない小説という芸術の栄光と悲劇があります。15p
おなじ自然主義といわれながら、藤村、秋声、白鳥らの冷静な観察者の生き方と対照的な作家に岩野泡鳴がいます。彼は日本の自然主義文学運動が含んでいた既成秩序に対する破壊の情熱と、実践性を含む自己主張と、生活の露出的な告白の要求を『蒲団』に示唆され、ぎりぎりまで拡大しました。神秘半獣修行を唱え、刹那の享楽を通して永遠の霊をめざそうというモティーフによって『耽溺』(明治四十二年)、『毒薬を飲む女』(大正三年)などの自伝的五部作を書きました。醜悪を敢えて描きながらも、その奔放な生涯と求道的情熱とは、泡鳴の本質が浪漫主義であることを示し、破戒的、無頼派的私小説の始祖といえます。58p