東洋哲学・言語分節以前の空(意識の形而上学) | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)


東洋哲学の諸伝統は、形而上学の極所を目指して、さまざまな名称を案出してきた。

曰く「絶対」、曰く「真(実在)」、曰く「道」、曰く「空」、曰く「無」等々。

いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮の名(『起信論』のいわゆる「仮名」)にすぎない。




「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を、全部一挙に払拭する(=空じ去る)ために、どうしても「空」という概念を立てることが必要になってくるのである。

もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。

本来的には、空ずべき何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。




『意識の形而上学』(井筒俊彦)