少し前から継続して、少しずつ小説を書き連ねている。
今から小説を書こうと思っているので、その下準備として、ブログに記事を更新する。
文章を書く練習は25歳ぐらいの頃から、ブログやSNSを通じて意識的にやってきたのことであるが、それでも、隔絶として文章を書くのが上手いわけではない。
文体が好きなもの書きとして、三島由紀夫や小林秀雄、梅原猛・・・・などいろいろいるが、それら文豪の美文には及ばない、
確かに文章を書くのは、書かない人間よりもいくらか上手いと思われるらしく、しばしば褒められたりもするのだが、実際のところどうなのだろう。
私の周りには文化方面で活動している人間が多く、それらの人間は文章で表現することも十分考えているので、文章を書くのがうまい。
自分の周囲には文にたけた人間がいっぱいいる。
そのなかのひとりが、自分の時折書く文章に古典文学調の雰囲気を感じ快さを感じると言ってくれた人がいる。
巧みな文体や、読ませる文体や雰囲気のある文学空間というものがどういったものなのか、ということを考えたときもあるが、付きつ決めて明晰な判断まで至っているない。
「古典文学調の文体のようだ」という感想はアナロジーの思考だ。
人のイメージは「〜〜のようだ」という想起を通じたアナロジーの思考に多分に支えられている。
それが雰囲気を構成しているものの分量のうちで大きいと思う。
また雰囲気というのは、認識と認識の間にあり、鮮明には認識されない曖昧な領域に属するという。
また小説執筆の源泉となる読書もざっくばらんだ。
自分の読書は小説を書くためのみのの読書ではなく、むしろ文学論というものは突き詰めて読んでおらず、建築や哲学やファッションや仏教学など本当にざっくばらんだ。
それが私の源泉であり、しかし小説に関しては、そうして読書で得た知識のみによるものではない。
なによりも、重要なのは経験であるという。
自分の経験に根ざしながら、その理念的思想を読書で得た知識によって吟味し小説を書き連ねること。
それが小説であるというので、私は経験と知識に折衷された織物を書いている。
そして今から書く。