写真は現実を詩へと変革する装置であるという合目的性を拠り所に | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)
カメラのレンズという工学的メカニズムによる視点が、文字通り極めて科学的であり、その視点が物事の合法則性を描写することにしか貢献しないのならば、それはすでに大枠の芸術論を裏切ってはいないか。

そう疑問に思います。

先の記事で取り上げた中平卓馬の植物図鑑はまさにそれです。

私自身は、合法則的なものに対して合目的的な視点を持って物事を照らし出すのが芸術-アートの一端であると思っています。

それを踏まえた上で、私は写真に対して合目的的な意志を投射し表現をしたいと考えています。

前の記事において〈理性-欲求能力-合目的性-意志〉によって表現をすることが私の方針だと書きましたが、まさにその方針を写真によって実現したいと考えています。

そう考えるのであれば、過度のレタッチをすることも目的に適ったものとなるでしょう。

ところで、写真というものは二次元的なものです。

まず、身体を現実に導入し、そのなかで被写体の撮影するという行為が先立ちます。

次いで、二次的作業としてそれを編集するという行為があります。

本来アナログフィルムの時代においては、その二次的な作業は暗室という仄暗い赤い光のなかで行われました。

徐々にフィルムが駆逐され、デジタルカメラが普及し出した2005年頃には、その呪術的な行為が写真から消えてしまったと嘆かれる言葉が、雑誌などを見ていて、よく垣間見られたものです。

現在では、パソコン上で二次的な作業をするのが一般的です。

とにかく一次的な行為と二次的な行為の過程を経て写真はつくられる。

一次的な段階が、現実を合法則的に描写するものであるならば、二次的な段階においてそれを合目的的なものへと改変する可能性というものがあると考えます。

言わば、写真には何の詩情も感じさせぬ現実を、言わば詩のように変革する能力があると考えます。

言わば、「写真は現実を審美化する装置である」ということです。

(そこで、写真という媒体は、それが平面にプリントされた虚構であるにも拘わらず、鑑賞者はその虚構を現実として見てくるという性質があるというのは重要です)

私個人としては、それが写真の合目的性であると思っています。

その合目的性を拠り所に写真を撮りたいと考えています。

どんな主題を選び、それを詩へと変革するのか。

それを熟考し後日書きたいと考えます。