――テレビスタジオ。数年前の朝。
明るいライトの下、志らくさんはいつもの調子で語り出した。
志らく「もし幼い子が母親を亡くしたら、それは不幸な話だ。母親がいた方がいいに決まっている。
でもね、その子はその不幸を吹き飛ばすように、懸命に生きている。それが素晴らしいんだよ。」
周囲が頷く中、ひときわ真剣なまなざしを向けたのは――小林麻耶さんだった。
麻耶「……私は、そうは思いません。」
スタジオの空気が少し変わる。
彼女の声は、震えていたけれど確かに強かった。
麻耶「母親がいない子が不幸だなんて、決めつけないでください。
母親がいなくても幸せに生きている子はたくさんいます。」
画面越しに見ていた人の中には、
その瞬間の二人の温度差を“対立”として記憶している人もいるだろう。
――そして今、数年の時を経て。
X(旧Twitter)に、その場面の“切り取られた映像”が再び流れた。
志らく「誤解を招く動画が出回っている。
あれは“母親のいない子は不幸”という話じゃないんだ。
“母親を亡くした子が健気に頑張っている”という話だった。
麻耶さんには申し訳なかったけど、決して悪意なんてなかった。」
彼は説明する。
言葉の真意を伝えようとするように。
だが、その言葉を見た麻耶さんの心は、もう一度ざわめいた。
麻耶「誤解を招く動画? 私はそうは思いません。
あなたは、はっきりと『母親がいないのは子供にとって不幸』と言いました。
だから私は怒ったんです。怒らざるを得なかった。」
麻耶「“母親がいた方がいいに決まっている”――その考えを“一般論”とすることが、私は怖い。
母親がいなくても幸せな子がいる。母親がいても苦しむ子もいる。
それが現実なんです。」
彼女の言葉には、痛みがあった。
でもその痛みは、誰かを攻撃するためのものではない。
“あの朝の言葉が、どれほどの人を傷つけたか”を知っているからこそ、
もう一度、伝えたかったのだ。
志らく「あの場面は、特定の子を思っての話だった。
“母親を亡くしてしまった子が可哀想だ”と。
でもそれを“冷たい人間”と見せようとする連中がいる。
誤解だよ。」
麻耶「誤解ではありません。
あなたが言葉にした“母親がいないのは不幸”という響きが、
多くの人を刺したんです。」
二人の声は、もう直接は交わらない。
けれど――
その“すれ違い”には、確かに社会の縮図が見える。
ナレーション
言葉とは、不思議なものだ。
発する側は「誰かを励ましたくて」語り、
受け取る側は「誰かを守りたくて」怒る。
どちらも“正しさ”を持っているのに、
交わることがこんなにも難しい。
麻耶「私は妹のことだけを思って発言したわけじゃない。
世の中の“母親がいない子供たち”を守りたかったのです。」
志らく「私は、彼女を悪く言いたかったわけじゃない。
あの時の彼女にも、感謝している。」
――互いの言葉が、時を超えて交差する。
そして、視聴者の胸の中に問いが残る。
言葉とは、誰のために発せられるものだろうか。
そして、誰の心を守るためのものなのか。
最後に、静かに締めくくりたい。
言葉は、凶器にも、祈りにもなる。
切り取られた一文の奥には、
それぞれの「生きてきた痛み」と「誰かを思う心」がある。
真実はいつも、映像の外にあるのかもしれない。


