今日という日【8月7日】
■大日本沿海輿地全図完成
1821年8月21日。
「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」は、江戸時代後期の測量家「伊能 忠敬」が中心となって作製された日本全土の実測地図。「伊能図」とも称される。
「大日本沿海輿地全図」は、1800年から1816年にかけて江戸幕府の事業として測量、作製が行われたもの。上総国出身で商人だった「伊能 忠敬」は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸で幕府天文方の「高橋 至時」に師事し、測量、天体観測などについて修めていた。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説あったなか、高橋、伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現:北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は1800年、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府も西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになったため国防上、全国沿岸地図の必要を痛感しており、伊能の事業を有益だと判断したため、測量許可のみならず、全国各藩にも協力させた。
蝦夷地測量の翌年の1801年には本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。1804年には、それまでの測量の結果をまとめ、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる東日本の地図をいったん幕府に提出。将軍「徳川 家斉」の上覧に供した。なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74km)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の少ない数値となっている。従来の日本地図とは異なり、実測を元にした非常に正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も大いに驚き、伊能の測量事業への支援を強化することとなる。伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、1805年の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。
以後、伊能らは1816年の第10次測量まで日本全土を歩測。また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である「間宮 林蔵」の観測結果を採り入れている。伊能は1818年に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師「高橋 至時」の子である「高橋 景保」が仕上げ作業を監督し、1821年8月7日「大日本沿海輿地全図」が完成。全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。
1821年8月21日。
「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」は、江戸時代後期の測量家「伊能 忠敬」が中心となって作製された日本全土の実測地図。「伊能図」とも称される。
「大日本沿海輿地全図」は、1800年から1816年にかけて江戸幕府の事業として測量、作製が行われたもの。上総国出身で商人だった「伊能 忠敬」は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸で幕府天文方の「高橋 至時」に師事し、測量、天体観測などについて修めていた。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説あったなか、高橋、伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現:北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は1800年、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府も西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになったため国防上、全国沿岸地図の必要を痛感しており、伊能の事業を有益だと判断したため、測量許可のみならず、全国各藩にも協力させた。
蝦夷地測量の翌年の1801年には本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。1804年には、それまでの測量の結果をまとめ、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる東日本の地図をいったん幕府に提出。将軍「徳川 家斉」の上覧に供した。なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74km)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の少ない数値となっている。従来の日本地図とは異なり、実測を元にした非常に正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も大いに驚き、伊能の測量事業への支援を強化することとなる。伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、1805年の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。
以後、伊能らは1816年の第10次測量まで日本全土を歩測。また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である「間宮 林蔵」の観測結果を採り入れている。伊能は1818年に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師「高橋 至時」の子である「高橋 景保」が仕上げ作業を監督し、1821年8月7日「大日本沿海輿地全図」が完成。全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。
今日という日【8月6日】
■広島原爆忌・広島平和記念日・原爆死没者慰霊式
1945年8月6日。
午前8時15分、米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下された。これにより、一瞬のうちに14万人が死亡。市街は壊滅。この歴史的悲劇から目をそむけないために、犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈るために、この日広島市では原爆慰霊祭が行われる。
また、広島市への原子爆弾投下によって廃墟となった広島市を復興させるため、国による補助率の引き上げや国有財産の譲与を認めることが検討され、1949年に当時の「浜井 信三」市長を中心に特別立法誓願運動を時のGHQや外国人新聞記者、政府や各政党に対して働きかけた。法案起草は広島出身で、参議院議事部長であった「寺井 忠」が担当し、「田中 二郎」東京大学教授、元(官僚)広島県知事であった当時の都市計画協会理事長「飯沼 一省」の働きかけで都市建設関係機関等を委員とする広島原爆災害総合復興対策協議会が目を通した後、同年5月、国会において広島平和記念都市建設法案が可決。その後、同年7月7日に行われた日本国憲法第95条による初の住民投票において、過半数賛成を得て、8月6日に、「広島平和記念都市建設法」が公布・施行された。
1945年8月6日。
午前8時15分、米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下された。これにより、一瞬のうちに14万人が死亡。市街は壊滅。この歴史的悲劇から目をそむけないために、犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈るために、この日広島市では原爆慰霊祭が行われる。
また、広島市への原子爆弾投下によって廃墟となった広島市を復興させるため、国による補助率の引き上げや国有財産の譲与を認めることが検討され、1949年に当時の「浜井 信三」市長を中心に特別立法誓願運動を時のGHQや外国人新聞記者、政府や各政党に対して働きかけた。法案起草は広島出身で、参議院議事部長であった「寺井 忠」が担当し、「田中 二郎」東京大学教授、元(官僚)広島県知事であった当時の都市計画協会理事長「飯沼 一省」の働きかけで都市建設関係機関等を委員とする広島原爆災害総合復興対策協議会が目を通した後、同年5月、国会において広島平和記念都市建設法案が可決。その後、同年7月7日に行われた日本国憲法第95条による初の住民投票において、過半数賛成を得て、8月6日に、「広島平和記念都市建設法」が公布・施行された。