今日という日【9月1日】
■大韓航空機撃墜事件
1983年9月1日。
「大韓航空機撃墜事件」は、この日に大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件。乗員乗客合わせて269人全員が死亡した。
発着国の韓国人とアメリカ人の乗客が多くを占めたが、日本や中華民国、当時イギリスの植民地であった香港やフィリピン国籍の乗客も多かった(なおフィリピン人のうちの4人は日本在住者で、そのうちの1人は横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに通学する小学生であった)。
なお日本人乗客の多くは、日本航空やパンアメリカン航空の直行便に比べて航空券が安価な大韓航空を使い、ソウルを経由して日本へ戻る観光客や留学生であった。また乗客には、右翼団体のジョン・バーチ・ソサエティの会員で、アメリカの民主党の保守派議員として知られ、ソウルでの式典に参加するために搭乗していたラリー・マクドナルド下院議員も含まれていた。
韓国では、ソ連が謝罪してくる姿勢を全く見せないため、政府によるソ連政府に対する正式な抗議のみならず、ソ連製品の不買運動など(例えばウォッカを流し捨てるか瓶ごと地面に叩きつけるか、ハンマーなどで粉々に割るなど)や、ソ連国旗に火をつけるなど、多くの市民によるソ連に対しての抗議運動が烈火の如く巻き起こった。
またアメリカは、ソ連のアエロフロート機のアメリカ乗り入れを無期限停止した上、政府職員の同航空の利用を制限し、パンアメリカン航空機のソ連乗り入れも停止した。なおその後もソ連によるロサンゼルスオリンピックのボイコットなど、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカやグラスノスチといった開放政策が行われるようになるまで両国の関係が緊張を続けたこともあり、アエロフロートのアメリカへの乗り入れ停止は1986年4月29日まで続くことになった。
この事件の疑問点に、「民間機と認識した上で撃墜したのか」ということがあるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットの「ゲンナジー・オシポヴィッチ」や地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、「007便が航行灯を点灯していた」ことと、「パイロットも地上も、007便を“民間機を装ったスパイ機”と認識していた」ことが明らかになった。また、アメリカ軍が撃墜後のソビエト軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。
これを裏付けるように、1976年に函館空港での「ベレンコ中尉亡命事件」でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていた「ヴィクトル・ベレンコ」元ソ連空軍中尉は、事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは、目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、1997年8月の北海道新聞のインタビューで証言している。
1983年9月1日。
「大韓航空機撃墜事件」は、この日に大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件。乗員乗客合わせて269人全員が死亡した。
発着国の韓国人とアメリカ人の乗客が多くを占めたが、日本や中華民国、当時イギリスの植民地であった香港やフィリピン国籍の乗客も多かった(なおフィリピン人のうちの4人は日本在住者で、そのうちの1人は横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに通学する小学生であった)。
なお日本人乗客の多くは、日本航空やパンアメリカン航空の直行便に比べて航空券が安価な大韓航空を使い、ソウルを経由して日本へ戻る観光客や留学生であった。また乗客には、右翼団体のジョン・バーチ・ソサエティの会員で、アメリカの民主党の保守派議員として知られ、ソウルでの式典に参加するために搭乗していたラリー・マクドナルド下院議員も含まれていた。
韓国では、ソ連が謝罪してくる姿勢を全く見せないため、政府によるソ連政府に対する正式な抗議のみならず、ソ連製品の不買運動など(例えばウォッカを流し捨てるか瓶ごと地面に叩きつけるか、ハンマーなどで粉々に割るなど)や、ソ連国旗に火をつけるなど、多くの市民によるソ連に対しての抗議運動が烈火の如く巻き起こった。
またアメリカは、ソ連のアエロフロート機のアメリカ乗り入れを無期限停止した上、政府職員の同航空の利用を制限し、パンアメリカン航空機のソ連乗り入れも停止した。なおその後もソ連によるロサンゼルスオリンピックのボイコットなど、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカやグラスノスチといった開放政策が行われるようになるまで両国の関係が緊張を続けたこともあり、アエロフロートのアメリカへの乗り入れ停止は1986年4月29日まで続くことになった。
この事件の疑問点に、「民間機と認識した上で撃墜したのか」ということがあるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットの「ゲンナジー・オシポヴィッチ」や地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、「007便が航行灯を点灯していた」ことと、「パイロットも地上も、007便を“民間機を装ったスパイ機”と認識していた」ことが明らかになった。また、アメリカ軍が撃墜後のソビエト軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。
これを裏付けるように、1976年に函館空港での「ベレンコ中尉亡命事件」でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていた「ヴィクトル・ベレンコ」元ソ連空軍中尉は、事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは、目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、1997年8月の北海道新聞のインタビューで証言している。