続けることが1番苦手です。


我妻善逸の気持ちはよく分かります。

文章を書きたいなあと思って始めても、

最初の1週間で飽きてしまうようなわたしです。

気がついたらほぼ1年、何も書いてないんだな。


こんな時間になっても眠くなければ全く眠れないので、

それなら何か書こうかなと思ってここにいます。




つい先日、30歳になりました。

10年ぶりに10のくらいが変わって、

なんだか不思議だなあとまだ慣れません。

29歳の後半は歳をとりたくないなと思ったりもしたけど、

いざ迎えてみると安心しているわたしがいます。


なんだかやっと、わたしとして生まれた気がします。

これはINFJの悪い癖かもしれないけど、リセットされたような肩の軽さがあります。

結局問題は、忘れるしかないんです。

どうにもならないんだと捨て置くことが、最近やっとできるようになった気がします。




人は結局ひとり


最近、江國香織さんの

『ひとりでカラカサさしてゆく』を読了しました。

あらすじとしては、3人の老人が大晦日に自殺をし、

残された家族がそれぞれに向き合って生きていく話です。


わたしはこの話を読んで、心底安心しました。

人はどうやって生きても別々の個体で、同じ死なんてなしえない。

その悲しさ虚しさが、わたしをたまらなく安心させたのです。



わたしは元来薄情なので、

誰のことも本当のところは理解してあげられないし、

わたしのことも誰も理解できないと信じています。

わたしたちができるのはあくまで共感であって、共有じゃない。

共有なんてできたらたまったもんじゃない。


わたしの中の悲しさや怒り、寂しさや苦しさが、

他の誰かに溶け出してしまうのだとしたら、

わたしはわたしでいられなくなってしまう。

誰にも理解できないから悲しめるし、

理解されないから寂しいと思える。


誰かと混ざり合ってしまうのだとしたら、

とてもじゃないけど生きていけないと思う。

わたしが溶け出したら困る。誰も侵食したくない。



パニック障害になってから3年、色んな本を読みました。

ひとりじゃないと肯定してくれる本もたくさんありました。

だけど色んな本を読んでもわたしはやっぱり、

江國さんの作品にみえる、「人は結局はひとりだ」と

突き放してくれる作風が好きだなと感じます。

わたしはわたしの足で立っていると、思いたいのかもしれません。

そう突き放してくれることで、わたしは人生というものを認め、他者と生きることができます。



ひとりじゃないと言われた方が、戸惑ってしまいます。

それは家族を信じられないわたしのこれまでが関係しているのかもしれません。

血の繋がりでさえも信じられないのに、ひとりでないなんて困る。



若い頃は分かり合えないことに虚しさを感じていました。

でも歳を重ねた今は、分かり合えないことに安心します。

分かり合えないから人と繋がり、今日を生きていける。

わたしはそう思うのです。