リンカーンについて、まとめてみました。
幌馬車は、西へ西へと進む。
人々は西を目指した。新たな土地を目指して。
開拓者精神、フロンティアスピリット。彼らは森を切り開き、田畑にした。
ある家族にも子供が生まれた。
少年はエーブと名づけられた。
正直者のエーブは、優しく力も強く、よく手伝いもした。周囲からも感心される子供へと育っていった。
ある日、エーブは怖ろしい光景に遭遇した。市場で彼が見たもの。
それは、黒人の親子が奴隷として売られていくところだった。
奴隷商人は鞭を手にしていた。
母親とまだ、年端もいかない子供。奴隷商人は、泣きながら子供に抱きつく母親をちぎるように引き離し、泣き叫ぶ二人を別の男へと売ったのだった。
エーブの耳にいつまでも残っていた。
連行されながら、絶叫しながらわが子を呼ぶ母親の声が。
母親に泣き叫ぶ子供の声が。
言葉は分からなくも何を言っているのかは十分分かる。
「お母さん、お母さん」
母と子は、それぞれ別の買い手に売り飛ばされてしまった、。
「同じ人間が奴隷として売られていくなんて、なんて酷いんだろう」
エーブは幼な心に誓った。
「こんなことがあっちゃいけない。いつか、絶対に奴隷制度をなくすんだ」
やがて、エーブも大人になった。
彼は大統領になっていた。エイブラハム・リンカーン。奴隷を解放した偉大な大統領だ。
その頃には、北部では奴隷制廃止運動も盛り上がってきていた。
リンカーンは、奴隷制を悲しみながらも、アメリカが南北に分かれてしまうことを懸念していた。大統領の就任式が行われたとこ、リンカーンはこう演説した。
「私は今ある奴隷制度には干渉しません。でも、どの州も勝手に合衆国を脱退することは認めません。しかし諸君(南部諸連合を指す)のほうから侵略しないかぎり戦争にはならない」
リンカーンは、そう宣言した。
しかし、南部の者はそれに猛烈に反対した。南部には広大な綿花畑がある。
黒人奴隷は朝から晩まで、家畜のように働かされていた。そして、奴隷抜きでは、綿花畑(プランテーションといいます)は成り立たないと彼らは考えていた(注)
恐れていたことがおこった。
南部の独立宣言だった。
リンカーンは思った。「絶対にアメリカを分断させてはならない」
彼は苦渋の決断をした。戦争だった。
南北戦争が始まった。
戦争は経済を発展させる側面を持っている。
この戦争によって、ライフル銃、物資を運ぶための鉄道、電信等も発展した。
開戦から二年後、ついにリンカーンは奴隷解放宣言を発布した。南北戦争は奴隷解放戦争となった。(注2)
リンカーンは「人民の人民による人民のための政府をつくるのだ」と言って北軍を励ました。
一番血の流れた戦争だった
お互いに多大な犠牲を払い、戦争が終わった。北軍の勝利、リンカーンの勝利だった。
アメリカ分断の危機は、こうして回避された。
そして、奴隷は解放された。彼ら黒人は自由の身となった。
南軍の降伏から4日後、リンカーンは首都ワシントンの劇場で暗殺された。
56歳の生涯だった。
政府と議会は奴隷制を廃止し黒人に自由を与え、市民権を与えた。
それでも、黒人と白人とが肩を並べるのを快く思わない人たちがいた。彼らは秘密結社KKKを作り、黒人を差別し、暴力等を振るった今でも少数ながらKKKは現存しています
(注)(当時、黒人が南部のプランテーションで働かされていた関係で、現在でも黒人は南部に多いんだよ)
(注2)南北戦争はじまってすぐに奴隷解放宣言を出さなかったわけ;当時、合衆国側にとどまった州と、脱退した州、そして奴隷州だが合衆国に忠誠を誓った州(境界州)とがあった。リンカーンは奴隷解放宣言を出すことにより、境界州が敵側につくことを恐れた。しかし、イギリス、フランスが南軍に味方するとの情報をもとに、奴隷解放宣言へと踏み切った。大義名分を得た北軍に対して、各国は表立って南部を支援できなくなった。
鉄道。
『アメリカ』(岩崎書店)より抜粋
南北戦争によって、鉄道が広まった。軍隊や軍需品の輸送だ。
大陸横断鉄道も作られた。
労働者は過酷な労働や、日射病、悪疫のためにバタバタと死んでいった。
鉄道にはインディアンの血がしみこんでいる。
・黒人差別を扱った映画「マンディンゴ」を見た。黒人奴隷のミード。すごい肉体してると思ったら、元ボクシングで世界チャンピオンで、モハメド・アリの顎を砕いたこともあるケン・ノートンが演じていた。
南部の地主の「奴隷制度は、神が定めたというのに」
というセリフに、当時の人々の考えが現れている。
白人、マジキチガイ
<虐殺者・リンカーン>
以下は、ウィキペディアからの抜粋です。
黒人奴隷に関しては「奴隷解放の父」と呼ばれているリンカーンだが、インディアン民族に対しては弁護士時代から大統領時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮している。リンカーンは米墨戦争の原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行ったが、インディアンとは血の雨(インディアン戦争)を降らせ、その後に出来る魅力的な虹(広大な植民地領土)を手に入れている。
ミネソタ暴動の後、暴動とは関係のない1700人のダコタ族も「スー族だから」との理由で塀の中に強制収容された。彼らはこの後さらに西方の保留地に強制移住させられた。当時の保留地は外に出ることを許されない完全強制収容所だった。
リンカーンが熱烈に師と仰いだヘンリー・クレイは徹底したインディアン排除論者だった。クレイはインディアンについてこう述べている。「人類全体からのインディアンの消滅は、世界的には大きな損失ではない。私には、彼らが人種として保存されるだけの価値があるとは思えない。」
「ブラック・ホーク戦争」ではソーク族とフォックス族を彼らの領土から追い出すため、義勇兵として参加した。
1862年、「ホームステッド法」を可決。これは、すべてのインディアンを保留地(Reservation)に定住させ、父系社会のルールのもと(インディアンの社会は母系である)、彼らに狩猟民族であろうと遊牧民族であろうと、一律にその文化を捨てさせ、農業を強制するものである[332]。」
この年の夏、11年前に狩猟禁止の保留地に強制移住させられ、条約で保証された年金(食糧)配給を止められて飢餓状態となったミネソタ州の狩猟民族ダコタ・スー族が、大統領直轄のインディアン管理局に対して、「領土と引き換えに条約で保証した年金を支払え」と要求。これを無視されたため大暴動を起こした。これに対し、リンカーン大統領はジョン・ポープに暴動鎮圧を命じた。ジョン・ポープは以下の声明を行ったが、リンカーンはこの声明になんの異議も唱えなかった
「私の目的は、スー族をすべて皆殺しにすることだ。彼らは条約だとか妥協を結ぶべき人間としてなどでは決してなく、狂人、あるいは野獣として扱われることになるだろう。」
インディアンたちは、彼らと友好的だった白人たちには決して攻撃を加えなかった。しかしこの暴動は「ダコタ戦争」と白人が呼ぶ「戦争」にすり替えられた。結局、ダコタ族の暴動は武力鎮圧され、スー族2000人のうち392人が軍事裁判にかけられた。リンカーンは南北戦争前の南北の緊張感に配慮して、ミネソタ州に200万ドルの連邦融資を持ちかけ、審議なしで訴追された38人のインディアンを死刑にすることでミネソタ州と妥協した。白人で断罪されたものは一人もいなかった。
ミネソタ州マンカトで行われた38人のダコタ族の一斉絞首刑執行。特別あつらえで作られた処刑台でのこの執行数は、今もなお米国史上最大記録である
この年、クリスマスの翌日の12月26日、38人のインディアンは一斉同時絞首刑執行された。彼らは酋長や呪術師など、インディアンにとっての精神的支柱ばかりだった。この処刑者数は米国でいまだに最大記録である。リンカーンはダコタ族に対する条約破りの年金不払いは無視して以後二年間、ダコタ族への年金支給を停止。この140万ドルの予算を「連邦融資」の形で白人の遺族に振りあてた。もともと年金がまともに支払われていなかったためにダコタ族が暴動を起こしたのにもかかわらず、リンカーンはこれに一切注意を払わなかった[335]。
この暴動の後、リンカーンはミネソタのダコタ族との連邦条約を破棄し、ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連行させた。ミネソタにそれでも残っていたダコタ族に対しては、州を挙げての皆殺し政策が行われ、女子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。リンカーンはこの虐殺方針に対しても全く異議を唱えなかった[336]。
1863年、この夏、リンカーンはジェームズ・カールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐を命じた。ナバホ族はダコタ族同様に、保留地年金を要求し、米軍に抵抗していた。カールトンはナバホ族の土地に金鉱があると睨んでおり、以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動の際と同様、司令者であるリンカーンはこれを是認した。
「この戦いはお前たちが存在するか、動くのをやめるまで、何年でも続行されるだろう。」
カールトン准将は対ナバホ作戦の指揮官として、キット・カーソン大佐を送り込んだ。カーソンは「ニューメキシコ義勇軍第一騎兵隊」を率いて、殺人、強姦、放火など徹底的な焦土作戦を行い、ナバホ族のトウモロコシ畑や小麦の畑を焼き尽くし、馬とラバを43頭、羊とヤギを1000頭以上奪った
1864年、リンカーンはナバホ族8500人の、300マイル離れた東にあるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)。この強制連行の途上で数百人の死者が出たが、そのほとんどが子供や老人だった。「ボスク・レドンド」でナバホ族は強制労働を課され、女は米軍兵士から強姦され、また乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環境下で死んだ。結局、リンカーンの死後の1868年に和平条約が調印されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
リンカーンの有名な演説にある「人民」には、インディアンは含まれていなかったのである
以上、ウィキからの抜粋。リンカーン、実際はけっこう鬼畜です。
黒人のために抱きしめ、先住民を足蹴にする。分かりません。
<以下もウィキより抜粋。後でまとめる>
奴隷制と"分かれたる家"[編集]
リンカーンは、「現在、南部に存在する奴隷制度については間接的にも直接的にも干渉する意思はない」と述べており、時間をかけてこの問題を解決しようとしていた。1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さん
1858年に共和党州大会でリンカーンは上院議員候補に指名された後、聖書のマルコの福音書から引いた「分かれたる家」演説を行った。「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝3の25[118])。半ば奴隷、半ば自由の状態でこの国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません - 家が倒れることを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。[119][120]」この演説は奴隷制論議で引き起こされる連邦の解体の危険性について刺激的なイメージを作り出し、北部中の共和党の共感を集めた
ゲティスバーグ演説[編集]
ゲティスバーグ戦場墓地で演説を行う機運となった[229]。「われわれがここで述べることは、世界はさして注意を払わないでありましょう。また永く記憶することもないでしょう。[230]」とリンカーンが予言したこととは逆に、この演説はアメリカ史の中でも最も引用されることの多いものとなった。
わずか272語、3分間の演説で、リンカーンはこの国が1789年ではなく1776年に生まれ、「自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献げられた。[230]」と主張した。彼はこの戦争をこれら自由と平等の信条に捧げられるものとして定義した。奴隷解放は国の戦争遂行の一部となっていた。多くの勇敢な兵士が死んだことは無駄ではない、その損失の結果として奴隷制が終わるのであり、民主主義の将来が保証され、「人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させない[230]」と主張した。リンカーンは南北戦争が豊富な目的を持っており、この国における新しい自由の誕生と結論付けた[231][232]。
ゲリー・ウィルズはこの演説を評して、「言葉の威力がこれほど発揮された例はまずほかにない」と延べ、「あらゆる現代の政治演説はゲティスバーグから始まると言っても過言ではない」と続けた
その他の立法[編集]
1862年にはホームステッド法に署名した。これは西部の連邦政府が管理する広大な土地を大変低い価格で購入できるようにするものだった。1862年と1864年の太平洋鉄道法は最初の大陸横断鉄道建設を連邦政府が支援するものであり、鉄道は1869年に開通した[276]。ホームステッド法と太平洋鉄道法の成立は、1850年代にそれに反対していた南部下院議員と上院議員がいないことで可能となった
1862年、リンカーンは古参将軍のジョン・ポープをミネソタ州に派遣して、同州におけるスー族の反乱(ダコタ戦争)を鎮圧させた。無害の農夫達を殺害した容疑で有罪となったサンテー・ダコタ族303名の処刑令状を提示されたリンカーンは、これら令状のそれぞれを自ら精査し、最終的に39人の処刑を承認した(1人はその後刑執行を延期された)[281]。リンカーンは連邦政府のインディアン政策を見直そうと計画していた
黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年にリンカーンを白人至上主義者と呼んだときに広く注目を集めた[311]。批評家はリンカーンが民族的な中傷を用い、黒人を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに苦情を言っている。リンカーンの擁護派は、彼が大半の政治家ほど悪くはなく[312]、政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展させた「道徳的先見家」だったと弁護している[313]。論点は奴隷解放者としてのリンカーンから離れて、黒人が自ら奴隷制を離れた、あるいは少なくとも政府に解放への圧力をかけたものであるという議論に移ってきた
・奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する「自由土地派」("free soil")と呼ばれた政治姿勢で知られた。
・1837年にこのことについて初めて発言し、「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし奴隷廃止論の公布はその害悪を減ずるよりはむしろ増大させるものと信ずる」と述べている[62][63]。
・アメリカ植民地協会を推進していたヘンリー・クレイに密接に従い、解放された奴隷をアフリカのリベリアに再入植させることで、奴隷制を事実上廃止できると考えていた[64][65]。
幌馬車は、西へ西へと進む。
人々は西を目指した。新たな土地を目指して。
開拓者精神、フロンティアスピリット。彼らは森を切り開き、田畑にした。
ある家族にも子供が生まれた。
少年はエーブと名づけられた。
正直者のエーブは、優しく力も強く、よく手伝いもした。周囲からも感心される子供へと育っていった。
ある日、エーブは怖ろしい光景に遭遇した。市場で彼が見たもの。
それは、黒人の親子が奴隷として売られていくところだった。
奴隷商人は鞭を手にしていた。
母親とまだ、年端もいかない子供。奴隷商人は、泣きながら子供に抱きつく母親をちぎるように引き離し、泣き叫ぶ二人を別の男へと売ったのだった。
エーブの耳にいつまでも残っていた。
連行されながら、絶叫しながらわが子を呼ぶ母親の声が。
母親に泣き叫ぶ子供の声が。
言葉は分からなくも何を言っているのかは十分分かる。
「お母さん、お母さん」
母と子は、それぞれ別の買い手に売り飛ばされてしまった、。
「同じ人間が奴隷として売られていくなんて、なんて酷いんだろう」
エーブは幼な心に誓った。
「こんなことがあっちゃいけない。いつか、絶対に奴隷制度をなくすんだ」
やがて、エーブも大人になった。
彼は大統領になっていた。エイブラハム・リンカーン。奴隷を解放した偉大な大統領だ。
その頃には、北部では奴隷制廃止運動も盛り上がってきていた。
リンカーンは、奴隷制を悲しみながらも、アメリカが南北に分かれてしまうことを懸念していた。大統領の就任式が行われたとこ、リンカーンはこう演説した。
「私は今ある奴隷制度には干渉しません。でも、どの州も勝手に合衆国を脱退することは認めません。しかし諸君(南部諸連合を指す)のほうから侵略しないかぎり戦争にはならない」
リンカーンは、そう宣言した。
しかし、南部の者はそれに猛烈に反対した。南部には広大な綿花畑がある。
黒人奴隷は朝から晩まで、家畜のように働かされていた。そして、奴隷抜きでは、綿花畑(プランテーションといいます)は成り立たないと彼らは考えていた(注)
恐れていたことがおこった。
南部の独立宣言だった。
リンカーンは思った。「絶対にアメリカを分断させてはならない」
彼は苦渋の決断をした。戦争だった。
南北戦争が始まった。
戦争は経済を発展させる側面を持っている。
この戦争によって、ライフル銃、物資を運ぶための鉄道、電信等も発展した。
開戦から二年後、ついにリンカーンは奴隷解放宣言を発布した。南北戦争は奴隷解放戦争となった。(注2)
リンカーンは「人民の人民による人民のための政府をつくるのだ」と言って北軍を励ました。
一番血の流れた戦争だった
お互いに多大な犠牲を払い、戦争が終わった。北軍の勝利、リンカーンの勝利だった。
アメリカ分断の危機は、こうして回避された。
そして、奴隷は解放された。彼ら黒人は自由の身となった。
南軍の降伏から4日後、リンカーンは首都ワシントンの劇場で暗殺された。
56歳の生涯だった。
政府と議会は奴隷制を廃止し黒人に自由を与え、市民権を与えた。
それでも、黒人と白人とが肩を並べるのを快く思わない人たちがいた。彼らは秘密結社KKKを作り、黒人を差別し、暴力等を振るった今でも少数ながらKKKは現存しています
(注)(当時、黒人が南部のプランテーションで働かされていた関係で、現在でも黒人は南部に多いんだよ)
(注2)南北戦争はじまってすぐに奴隷解放宣言を出さなかったわけ;当時、合衆国側にとどまった州と、脱退した州、そして奴隷州だが合衆国に忠誠を誓った州(境界州)とがあった。リンカーンは奴隷解放宣言を出すことにより、境界州が敵側につくことを恐れた。しかし、イギリス、フランスが南軍に味方するとの情報をもとに、奴隷解放宣言へと踏み切った。大義名分を得た北軍に対して、各国は表立って南部を支援できなくなった。
鉄道。
『アメリカ』(岩崎書店)より抜粋
南北戦争によって、鉄道が広まった。軍隊や軍需品の輸送だ。
大陸横断鉄道も作られた。
労働者は過酷な労働や、日射病、悪疫のためにバタバタと死んでいった。
鉄道にはインディアンの血がしみこんでいる。
・黒人差別を扱った映画「マンディンゴ」を見た。黒人奴隷のミード。すごい肉体してると思ったら、元ボクシングで世界チャンピオンで、モハメド・アリの顎を砕いたこともあるケン・ノートンが演じていた。
南部の地主の「奴隷制度は、神が定めたというのに」
というセリフに、当時の人々の考えが現れている。
白人、マジキチガイ
<虐殺者・リンカーン>
以下は、ウィキペディアからの抜粋です。
黒人奴隷に関しては「奴隷解放の父」と呼ばれているリンカーンだが、インディアン民族に対しては弁護士時代から大統領時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮している。リンカーンは米墨戦争の原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行ったが、インディアンとは血の雨(インディアン戦争)を降らせ、その後に出来る魅力的な虹(広大な植民地領土)を手に入れている。
ミネソタ暴動の後、暴動とは関係のない1700人のダコタ族も「スー族だから」との理由で塀の中に強制収容された。彼らはこの後さらに西方の保留地に強制移住させられた。当時の保留地は外に出ることを許されない完全強制収容所だった。
リンカーンが熱烈に師と仰いだヘンリー・クレイは徹底したインディアン排除論者だった。クレイはインディアンについてこう述べている。「人類全体からのインディアンの消滅は、世界的には大きな損失ではない。私には、彼らが人種として保存されるだけの価値があるとは思えない。」
「ブラック・ホーク戦争」ではソーク族とフォックス族を彼らの領土から追い出すため、義勇兵として参加した。
1862年、「ホームステッド法」を可決。これは、すべてのインディアンを保留地(Reservation)に定住させ、父系社会のルールのもと(インディアンの社会は母系である)、彼らに狩猟民族であろうと遊牧民族であろうと、一律にその文化を捨てさせ、農業を強制するものである[332]。」
この年の夏、11年前に狩猟禁止の保留地に強制移住させられ、条約で保証された年金(食糧)配給を止められて飢餓状態となったミネソタ州の狩猟民族ダコタ・スー族が、大統領直轄のインディアン管理局に対して、「領土と引き換えに条約で保証した年金を支払え」と要求。これを無視されたため大暴動を起こした。これに対し、リンカーン大統領はジョン・ポープに暴動鎮圧を命じた。ジョン・ポープは以下の声明を行ったが、リンカーンはこの声明になんの異議も唱えなかった
「私の目的は、スー族をすべて皆殺しにすることだ。彼らは条約だとか妥協を結ぶべき人間としてなどでは決してなく、狂人、あるいは野獣として扱われることになるだろう。」
インディアンたちは、彼らと友好的だった白人たちには決して攻撃を加えなかった。しかしこの暴動は「ダコタ戦争」と白人が呼ぶ「戦争」にすり替えられた。結局、ダコタ族の暴動は武力鎮圧され、スー族2000人のうち392人が軍事裁判にかけられた。リンカーンは南北戦争前の南北の緊張感に配慮して、ミネソタ州に200万ドルの連邦融資を持ちかけ、審議なしで訴追された38人のインディアンを死刑にすることでミネソタ州と妥協した。白人で断罪されたものは一人もいなかった。
ミネソタ州マンカトで行われた38人のダコタ族の一斉絞首刑執行。特別あつらえで作られた処刑台でのこの執行数は、今もなお米国史上最大記録である
この年、クリスマスの翌日の12月26日、38人のインディアンは一斉同時絞首刑執行された。彼らは酋長や呪術師など、インディアンにとっての精神的支柱ばかりだった。この処刑者数は米国でいまだに最大記録である。リンカーンはダコタ族に対する条約破りの年金不払いは無視して以後二年間、ダコタ族への年金支給を停止。この140万ドルの予算を「連邦融資」の形で白人の遺族に振りあてた。もともと年金がまともに支払われていなかったためにダコタ族が暴動を起こしたのにもかかわらず、リンカーンはこれに一切注意を払わなかった[335]。
この暴動の後、リンカーンはミネソタのダコタ族との連邦条約を破棄し、ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連行させた。ミネソタにそれでも残っていたダコタ族に対しては、州を挙げての皆殺し政策が行われ、女子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。リンカーンはこの虐殺方針に対しても全く異議を唱えなかった[336]。
1863年、この夏、リンカーンはジェームズ・カールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐を命じた。ナバホ族はダコタ族同様に、保留地年金を要求し、米軍に抵抗していた。カールトンはナバホ族の土地に金鉱があると睨んでおり、以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動の際と同様、司令者であるリンカーンはこれを是認した。
「この戦いはお前たちが存在するか、動くのをやめるまで、何年でも続行されるだろう。」
カールトン准将は対ナバホ作戦の指揮官として、キット・カーソン大佐を送り込んだ。カーソンは「ニューメキシコ義勇軍第一騎兵隊」を率いて、殺人、強姦、放火など徹底的な焦土作戦を行い、ナバホ族のトウモロコシ畑や小麦の畑を焼き尽くし、馬とラバを43頭、羊とヤギを1000頭以上奪った
1864年、リンカーンはナバホ族8500人の、300マイル離れた東にあるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)。この強制連行の途上で数百人の死者が出たが、そのほとんどが子供や老人だった。「ボスク・レドンド」でナバホ族は強制労働を課され、女は米軍兵士から強姦され、また乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環境下で死んだ。結局、リンカーンの死後の1868年に和平条約が調印されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
リンカーンの有名な演説にある「人民」には、インディアンは含まれていなかったのである
以上、ウィキからの抜粋。リンカーン、実際はけっこう鬼畜です。
黒人のために抱きしめ、先住民を足蹴にする。分かりません。
<以下もウィキより抜粋。後でまとめる>
奴隷制と"分かれたる家"[編集]
リンカーンは、「現在、南部に存在する奴隷制度については間接的にも直接的にも干渉する意思はない」と述べており、時間をかけてこの問題を解決しようとしていた。1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さん
1858年に共和党州大会でリンカーンは上院議員候補に指名された後、聖書のマルコの福音書から引いた「分かれたる家」演説を行った。「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝3の25[118])。半ば奴隷、半ば自由の状態でこの国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません - 家が倒れることを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。[119][120]」この演説は奴隷制論議で引き起こされる連邦の解体の危険性について刺激的なイメージを作り出し、北部中の共和党の共感を集めた
ゲティスバーグ演説[編集]
ゲティスバーグ戦場墓地で演説を行う機運となった[229]。「われわれがここで述べることは、世界はさして注意を払わないでありましょう。また永く記憶することもないでしょう。[230]」とリンカーンが予言したこととは逆に、この演説はアメリカ史の中でも最も引用されることの多いものとなった。
わずか272語、3分間の演説で、リンカーンはこの国が1789年ではなく1776年に生まれ、「自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献げられた。[230]」と主張した。彼はこの戦争をこれら自由と平等の信条に捧げられるものとして定義した。奴隷解放は国の戦争遂行の一部となっていた。多くの勇敢な兵士が死んだことは無駄ではない、その損失の結果として奴隷制が終わるのであり、民主主義の将来が保証され、「人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させない[230]」と主張した。リンカーンは南北戦争が豊富な目的を持っており、この国における新しい自由の誕生と結論付けた[231][232]。
ゲリー・ウィルズはこの演説を評して、「言葉の威力がこれほど発揮された例はまずほかにない」と延べ、「あらゆる現代の政治演説はゲティスバーグから始まると言っても過言ではない」と続けた
その他の立法[編集]
1862年にはホームステッド法に署名した。これは西部の連邦政府が管理する広大な土地を大変低い価格で購入できるようにするものだった。1862年と1864年の太平洋鉄道法は最初の大陸横断鉄道建設を連邦政府が支援するものであり、鉄道は1869年に開通した[276]。ホームステッド法と太平洋鉄道法の成立は、1850年代にそれに反対していた南部下院議員と上院議員がいないことで可能となった
1862年、リンカーンは古参将軍のジョン・ポープをミネソタ州に派遣して、同州におけるスー族の反乱(ダコタ戦争)を鎮圧させた。無害の農夫達を殺害した容疑で有罪となったサンテー・ダコタ族303名の処刑令状を提示されたリンカーンは、これら令状のそれぞれを自ら精査し、最終的に39人の処刑を承認した(1人はその後刑執行を延期された)[281]。リンカーンは連邦政府のインディアン政策を見直そうと計画していた
黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年にリンカーンを白人至上主義者と呼んだときに広く注目を集めた[311]。批評家はリンカーンが民族的な中傷を用い、黒人を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに苦情を言っている。リンカーンの擁護派は、彼が大半の政治家ほど悪くはなく[312]、政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展させた「道徳的先見家」だったと弁護している[313]。論点は奴隷解放者としてのリンカーンから離れて、黒人が自ら奴隷制を離れた、あるいは少なくとも政府に解放への圧力をかけたものであるという議論に移ってきた
・奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する「自由土地派」("free soil")と呼ばれた政治姿勢で知られた。
・1837年にこのことについて初めて発言し、「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし奴隷廃止論の公布はその害悪を減ずるよりはむしろ増大させるものと信ずる」と述べている[62][63]。
・アメリカ植民地協会を推進していたヘンリー・クレイに密接に従い、解放された奴隷をアフリカのリベリアに再入植させることで、奴隷制を事実上廃止できると考えていた[64][65]。
銃声がこだまする。
風穴を開けられた兵士たちは、次々と倒れていく。
1750年ごろ。
植民地をめぐって、フランスとイギリスは対立していた。
フランスは今のカナダからミシシッピ川に至る広い地域を治めていた。
一方、イギリスは大西洋岸の細長い土地に13の植民を築いていた。
両国の目的は、勢力の拡大だった。
「すぐにここから立ち退くように」
イギリスからの手紙を持ってきたのは、身長180もある大男だった。彼はまだ未開の地だったアメリカの野を走り、草をかきわけ、急流をいかだで下り、ようやくにしてここまでたどり着いたのだった。
そして、彼こそが後のアメリカ大統領ワシントンその人だった。
書面を読んだフランス側は一笑に付した。
むろん、とうてい飲み込める内容ではない。
戦争が始まった。
フランス軍はインディアンを仲間に取りこみイギリスと戦ったので、この戦争はフレンチ・インディアン戦争と呼ばれた(7年戦争ともいう)。
荒野の中、イギリス軍は隊列を組んで行進してくる。
「隊列を崩しましょう。このままではやられてしまいます」
ワシントンは指揮官に忠言したが、彼は意見を聞かなかった。栄光あるイギリス軍は美しくなければならない。我が大英帝国軍人はいかなる時でも誇り高き存在なのだ。
列を崩さず整然と行進するイギリス軍は絶好の標的だった。木の陰から撃たれる銃により目の前の兵士たちは次々と倒れていく。
イギリスは負けた。
その後、何年にもわたり、戦争は繰り広げられた。
幾多の戦闘の末、勝利したのはイギリスだった。
パリ条約が結ばれ、ミシシッピ川より東にある全てのフランス領やカナダがイギリスのものとなった。
「おい、聞いたか?また新たな税金がかけられるそうだ。今度は印紙 (印紙とは、新聞、卒業証書、商業手形、法律文書などのこと)にまで税金がかけられるそうだ」
「冗談じゃない。イギリスは一体オレたちを何だと思っているんだ」
「イギリスは俺たち植民地の人間を本国議会に出席させないくせに、税だけは取ろうとしやがる」
「そうさ、こいつは悪法だ。議会に代表を送れないのに、課税をするなんて、こんなふざけた話があるか。そうとも『代表なくして課税なし』だ!
植民地からの怒りに驚いたイギリスは印紙法は取りやめにしたが、その代わりに茶などのの品物に税をかけてきた。
ある晩のこと。
ボストン港のイギリスの商船(=東インド会社の船)に不振な男たちが乗りこんだ。インディアン…いや、違う。インディアンに扮した植民地の人間だった。
「おい、全部捨てちまえ」
彼らは木箱をかつぐと手当たり次第に海へと投げ捨てた。ボストン港は赤く染まった。
彼らは積荷の紅茶を全部海に投げ込んだのだった。この事件をボストン茶会事件といいます。(ボストンは当時でも大都市でした
「不当な法律を取り消してください」
イギリスからの重税に業を煮やした植民地の人間はイギリスに頼んだ。しかし時のイギリス国王ジョージ3世は言い放った。
「これは大英帝国への反逆だ。いいか、力で屈服させるんだ。植民地をイギリスに服従させるんだ」
どうして、イギリスは分かってくれないんだろう
「もはや戦争は避けられない。戦争に勝つしか、我々が自由になるすべはない」
人々は決意した。
ついにイギリス軍と植民地軍との戦争がおこった。ここにアメリカ独立戦争の火蓋が切られたのだった。
その頃、コモンセンスという本が民衆の間ではやっていた。
「おい、お前何を読んでいるんだ?」
「コモンセンスさ。俺たちにとって独立は必要なことなんだ。俺たちが戦うのは自由のためなんだ」
トマス・ペインによって書かれたこの本は人々を勇気付け、独立の気運を作り上げた。
初代最高司令官にはワシントンが任命された。
ジェファーソンが独立宣言の原案を考え、そして、1776年7月6日、独立宣言がなされた。
「すべての国民は生まれながらにして平等であり、生命、自由、幸福を追求する権利を持っていると信ずる」と。
その月、イギリス軍の大船団がNYへと姿を現した。
海を埋め尽くす大艦隊。
あまりにも歴然とした戦力差。ワシントンは一時撤退し巻き返しをはかった。その後、アメリカ軍は苦戦しながらも戦いを進めた。冬がやってきた。
衣服も武器も薬も足りない。
志願兵は帰ってしまう。
「一体、どうしたらいいんだ」
ワシントンは頭を悩ませた。
一方、その頃、フランクリン・ルーズベルトは、フランスで交渉をしていた。
「イギリスはフランスの長年の敵。今こそ、イギリスに打ち勝ついい機会ではありませんか」
ワシントンが頭を悩ませているとき、吉報が届いた。
フランスと植民地との軍事協定が結ばれたのだった。
フランス艦隊がやってきた。大艦隊を引き連れて。
アメリカ、フランスの連合軍がイギリス軍を包囲し追い詰めた。
ついにイギリス軍が白旗をあげた。
これより植民地13州は「アメリカ合衆国」という国名を名乗ることになる。
1783.パリ条約でアメリカ合衆国の独立は、正式に認められた。
イギリスはミシシッピ以東の地をアメリカに譲り、13の州はひとつの連合国家としての歩みを始めた。そしてワシントンは初代の大統領になった。
ワシントンは2期、大統領をつとめたあと、3期のすすめを断りのちに引退した。ワシントンは故郷バージニアに戻り、3年後世を去った。首都は彼の名にちなみ「ワシントン」と命名された。
<大雑把なまとめ>
当時、イギリスとフランスは植民地をめぐって争っていたんだ
イギリスは大西洋側(地図で言うと右のほう)の13州で植民していたし、フランスはカナダからミシシッピ川の流域にかけての広い地域を植民していた。
戦争に勝ったのはイギリスだったんだ。イギリスは、フランスの領土(カナダやミシシッピ川より東の土地)をフランスから奪ったんだ。
また、イギリスは植民地に多大な税をかけてきた
税、税、税・・・。
ついに民衆も嫌気がさした。「やってられっか、こんちくしょう」
植民地の民衆は、武装蜂起し、独立戦争が始まったんだ。
そして、植民地側が勝ち、ここで「アメリカ合衆国」ができたんだ
<雑・自分用 これから整理するもの>
(フランスは五大湖周辺)26P
(これでいいのか確認;フランス人はケベック…今のカナダ…に砦を築いた。近くに流れている川を見て彼らは思った。「きっとこの川を下っていけば大西洋に出れるはずだ」と。探検家が川を下り、ついに海に到達した。彼らの出たのは、大西洋ではなく、メキシコ湾だったが、とにかく彼らはそこに国旗をたて砦を築いた(ニューオリンズだよ)。彼らの下った川はミシシッピ川。フランスはミシシッピ川沿いを開拓していった。
多くの移民がやってきた。彼らは綿花畑をつくり、労働者をアフリカから連れてきた奴隷で補った。また、イギリスとフランスは仲が悪かった。植民地をめぐる争いである。イギリス王がアメリカ住民に増税を課すと、それに怒った住民が反旗を翻した。1776年、フィラデルフィアにてトマス・ジェファーソンが独立宣言をした。しかし、この宣言の案文にあった「奴隷制度はよくない」という案文はジェファーソン自身が奴隷所有者のため削除されてしまった)
当時ルイジアナと呼ばれたニューオリンズからミシシッピより西にかけての地域は、フランスのものだった。アメリカ3代目の大統領ジェファーソンは、「ニューオリンズは非常に重要な地域だ。売ってほしい」とフランスに打診した。1000万ドルまでなら出してもいいと思っていたところ、ナポレオンの返事は意外なものだった。「ルイジアナ一体を1500万ドルで売ろう」。こうして、アメリカは非常に安い値段でルイジアナ一体を手に入れることができた42P
(1828年くらい)ジャクソン大統領。インディアン移住法を議会に認めさせた。
アメリカより抜粋『ミシシッピより東に住むインディアン諸部族を、ミシシッピの西側の荒地に新たに指定居住地を設けて強制的に移住させる、というのがこの法律であった。インディアンは激しい抵抗をみせたが、ついに多大な犠牲を出し、移住させられた。
ついに旅立ちの日がきた。
合衆国の軍隊に監督され、長い旅が続けられた。途中、飢えと寒さに襲われ、疲労と病気が重なって死者が続出した。ミシシッピを渡ると、土地は次第に乾いてくる。砂塵が一行めがけて舞い上がった。
総勢は一万2000人だったが、五ヶ月かかって目的地にたどり着いたときには、3000人になってしまっていた。死者は、道々墓標もなく埋められた。いつしか「涙の道」とよばれるようになった。』
・テキサス州は、かつてメキシコの領土だった。アメリカから多くの移住者が来た。メキシコ政府もそれを認めていた。しかし、またたくまにインディアンやメキシコ人の数を追い抜いてしまった。メキシコ政府はあわてて、移住禁止令を出したが、それでも増え続けた。移住者たちは、アメリカ政府の援助の約束をとりつけた上で反乱をおこした。反乱軍は勝ち、テキサス共和国が誕生した。アメリカはこれをすぐに承認し、その9年後にはメキシコの反対を押し切って、これを併合し、テキサス州としてしまった。50P
『・アメリカ合衆国の黒人奴隷制度は、植民地時代に始まったが、その全盛時代は独立した後のことであった。この繁栄は、アメリカ独立と時期を同じくしたイギリスの産業革命によるものである。その中心となった木綿工業では、原料となる綿花を大量に必要とした。綿作地帯は黒人地帯ともよばれた。』
「よく均整のとれた白い建物・・・・。高い円柱、広々としたベランダ、平たい屋根、それらは・・・あたかも貴婦人のように美しかった」
これはマーガレット・ミッチェルの「風とともにさりぬ」に描かれた大農園の邸宅である。まるで貴族の館のようだ。綿畑で働く黒人奴隷…その姿はこの小説ではでてこないが、かれらの貴族のような暮らしを支えていたのだ。
早朝から日没まで、怠ければ鞭が飛ぶ。
ストウ婦人。「アンクル・トムの小屋」57Pぜひ参照
それからリンカーンの時代へ。
<雑…以下自分用まとめ>
(ワシントン;バージニア生まれ。祖先はピューリタン革命でイギリスから逃げてきた)。
ジェファーソンは、独立宣言を下書きした政治家。1800年の選挙で、彼は3代目の大統領に選ばれる。このころ、ヨーロッパ中をまきこむナポレオン戦争がはじまっており、彼はどの国にも味方しない中立の立場をとり、国内を安定させる努力をした。フランスよりルイジアナを購入し、国土も2倍に広げた。
<その他>
奴隷制度について描かれた映画を借りてみた。
「マンディンゴ」と、「アミスタッド」
・「マンディンゴ」にあった南部地主のセリフ「奴隷制度は神が定めたというのに・・・」
・「アミスタッド」1839年頃だから、リンカーンが大統領になるちょっと前の話みたい。
・「風とともに去りぬ」も、南北戦争の頃の話みたい。今度図書館で借りてみる。
・南部の綿花→イギリス、マンチェスターへ
・はじめての植民地バージニア(1607)→11年後1961年にはオランダ船でバージニアに20人の奴→アメリカ大陸開拓進む→たばこ、サトウキビの生産→奴隷増える
・上の下や腕に所有者の焼印
・1661年。黒人奴隷を終身奴隷とする法律できる。もし奴隷が逃亡したら、磔や火あぶりもOKだった
風穴を開けられた兵士たちは、次々と倒れていく。
1750年ごろ。
植民地をめぐって、フランスとイギリスは対立していた。
フランスは今のカナダからミシシッピ川に至る広い地域を治めていた。
一方、イギリスは大西洋岸の細長い土地に13の植民を築いていた。
両国の目的は、勢力の拡大だった。
「すぐにここから立ち退くように」
イギリスからの手紙を持ってきたのは、身長180もある大男だった。彼はまだ未開の地だったアメリカの野を走り、草をかきわけ、急流をいかだで下り、ようやくにしてここまでたどり着いたのだった。
そして、彼こそが後のアメリカ大統領ワシントンその人だった。
書面を読んだフランス側は一笑に付した。
むろん、とうてい飲み込める内容ではない。
戦争が始まった。
フランス軍はインディアンを仲間に取りこみイギリスと戦ったので、この戦争はフレンチ・インディアン戦争と呼ばれた(7年戦争ともいう)。
荒野の中、イギリス軍は隊列を組んで行進してくる。
「隊列を崩しましょう。このままではやられてしまいます」
ワシントンは指揮官に忠言したが、彼は意見を聞かなかった。栄光あるイギリス軍は美しくなければならない。我が大英帝国軍人はいかなる時でも誇り高き存在なのだ。
列を崩さず整然と行進するイギリス軍は絶好の標的だった。木の陰から撃たれる銃により目の前の兵士たちは次々と倒れていく。
イギリスは負けた。
その後、何年にもわたり、戦争は繰り広げられた。
幾多の戦闘の末、勝利したのはイギリスだった。
パリ条約が結ばれ、ミシシッピ川より東にある全てのフランス領やカナダがイギリスのものとなった。
「おい、聞いたか?また新たな税金がかけられるそうだ。今度は印紙 (印紙とは、新聞、卒業証書、商業手形、法律文書などのこと)にまで税金がかけられるそうだ」
「冗談じゃない。イギリスは一体オレたちを何だと思っているんだ」
「イギリスは俺たち植民地の人間を本国議会に出席させないくせに、税だけは取ろうとしやがる」
「そうさ、こいつは悪法だ。議会に代表を送れないのに、課税をするなんて、こんなふざけた話があるか。そうとも『代表なくして課税なし』だ!
植民地からの怒りに驚いたイギリスは印紙法は取りやめにしたが、その代わりに茶などのの品物に税をかけてきた。
ある晩のこと。
ボストン港のイギリスの商船(=東インド会社の船)に不振な男たちが乗りこんだ。インディアン…いや、違う。インディアンに扮した植民地の人間だった。
「おい、全部捨てちまえ」
彼らは木箱をかつぐと手当たり次第に海へと投げ捨てた。ボストン港は赤く染まった。
彼らは積荷の紅茶を全部海に投げ込んだのだった。この事件をボストン茶会事件といいます。(ボストンは当時でも大都市でした
「不当な法律を取り消してください」
イギリスからの重税に業を煮やした植民地の人間はイギリスに頼んだ。しかし時のイギリス国王ジョージ3世は言い放った。
「これは大英帝国への反逆だ。いいか、力で屈服させるんだ。植民地をイギリスに服従させるんだ」
どうして、イギリスは分かってくれないんだろう
「もはや戦争は避けられない。戦争に勝つしか、我々が自由になるすべはない」
人々は決意した。
ついにイギリス軍と植民地軍との戦争がおこった。ここにアメリカ独立戦争の火蓋が切られたのだった。
その頃、コモンセンスという本が民衆の間ではやっていた。
「おい、お前何を読んでいるんだ?」
「コモンセンスさ。俺たちにとって独立は必要なことなんだ。俺たちが戦うのは自由のためなんだ」
トマス・ペインによって書かれたこの本は人々を勇気付け、独立の気運を作り上げた。
初代最高司令官にはワシントンが任命された。
ジェファーソンが独立宣言の原案を考え、そして、1776年7月6日、独立宣言がなされた。
「すべての国民は生まれながらにして平等であり、生命、自由、幸福を追求する権利を持っていると信ずる」と。
その月、イギリス軍の大船団がNYへと姿を現した。
海を埋め尽くす大艦隊。
あまりにも歴然とした戦力差。ワシントンは一時撤退し巻き返しをはかった。その後、アメリカ軍は苦戦しながらも戦いを進めた。冬がやってきた。
衣服も武器も薬も足りない。
志願兵は帰ってしまう。
「一体、どうしたらいいんだ」
ワシントンは頭を悩ませた。
一方、その頃、フランクリン・ルーズベルトは、フランスで交渉をしていた。
「イギリスはフランスの長年の敵。今こそ、イギリスに打ち勝ついい機会ではありませんか」
ワシントンが頭を悩ませているとき、吉報が届いた。
フランスと植民地との軍事協定が結ばれたのだった。
フランス艦隊がやってきた。大艦隊を引き連れて。
アメリカ、フランスの連合軍がイギリス軍を包囲し追い詰めた。
ついにイギリス軍が白旗をあげた。
これより植民地13州は「アメリカ合衆国」という国名を名乗ることになる。
1783.パリ条約でアメリカ合衆国の独立は、正式に認められた。
イギリスはミシシッピ以東の地をアメリカに譲り、13の州はひとつの連合国家としての歩みを始めた。そしてワシントンは初代の大統領になった。
ワシントンは2期、大統領をつとめたあと、3期のすすめを断りのちに引退した。ワシントンは故郷バージニアに戻り、3年後世を去った。首都は彼の名にちなみ「ワシントン」と命名された。
<大雑把なまとめ>
当時、イギリスとフランスは植民地をめぐって争っていたんだ
イギリスは大西洋側(地図で言うと右のほう)の13州で植民していたし、フランスはカナダからミシシッピ川の流域にかけての広い地域を植民していた。
戦争に勝ったのはイギリスだったんだ。イギリスは、フランスの領土(カナダやミシシッピ川より東の土地)をフランスから奪ったんだ。
また、イギリスは植民地に多大な税をかけてきた
税、税、税・・・。
ついに民衆も嫌気がさした。「やってられっか、こんちくしょう」
植民地の民衆は、武装蜂起し、独立戦争が始まったんだ。
そして、植民地側が勝ち、ここで「アメリカ合衆国」ができたんだ
<雑・自分用 これから整理するもの>
(フランスは五大湖周辺)26P
(これでいいのか確認;フランス人はケベック…今のカナダ…に砦を築いた。近くに流れている川を見て彼らは思った。「きっとこの川を下っていけば大西洋に出れるはずだ」と。探検家が川を下り、ついに海に到達した。彼らの出たのは、大西洋ではなく、メキシコ湾だったが、とにかく彼らはそこに国旗をたて砦を築いた(ニューオリンズだよ)。彼らの下った川はミシシッピ川。フランスはミシシッピ川沿いを開拓していった。
多くの移民がやってきた。彼らは綿花畑をつくり、労働者をアフリカから連れてきた奴隷で補った。また、イギリスとフランスは仲が悪かった。植民地をめぐる争いである。イギリス王がアメリカ住民に増税を課すと、それに怒った住民が反旗を翻した。1776年、フィラデルフィアにてトマス・ジェファーソンが独立宣言をした。しかし、この宣言の案文にあった「奴隷制度はよくない」という案文はジェファーソン自身が奴隷所有者のため削除されてしまった)
当時ルイジアナと呼ばれたニューオリンズからミシシッピより西にかけての地域は、フランスのものだった。アメリカ3代目の大統領ジェファーソンは、「ニューオリンズは非常に重要な地域だ。売ってほしい」とフランスに打診した。1000万ドルまでなら出してもいいと思っていたところ、ナポレオンの返事は意外なものだった。「ルイジアナ一体を1500万ドルで売ろう」。こうして、アメリカは非常に安い値段でルイジアナ一体を手に入れることができた42P
(1828年くらい)ジャクソン大統領。インディアン移住法を議会に認めさせた。
アメリカより抜粋『ミシシッピより東に住むインディアン諸部族を、ミシシッピの西側の荒地に新たに指定居住地を設けて強制的に移住させる、というのがこの法律であった。インディアンは激しい抵抗をみせたが、ついに多大な犠牲を出し、移住させられた。
ついに旅立ちの日がきた。
合衆国の軍隊に監督され、長い旅が続けられた。途中、飢えと寒さに襲われ、疲労と病気が重なって死者が続出した。ミシシッピを渡ると、土地は次第に乾いてくる。砂塵が一行めがけて舞い上がった。
総勢は一万2000人だったが、五ヶ月かかって目的地にたどり着いたときには、3000人になってしまっていた。死者は、道々墓標もなく埋められた。いつしか「涙の道」とよばれるようになった。』
・テキサス州は、かつてメキシコの領土だった。アメリカから多くの移住者が来た。メキシコ政府もそれを認めていた。しかし、またたくまにインディアンやメキシコ人の数を追い抜いてしまった。メキシコ政府はあわてて、移住禁止令を出したが、それでも増え続けた。移住者たちは、アメリカ政府の援助の約束をとりつけた上で反乱をおこした。反乱軍は勝ち、テキサス共和国が誕生した。アメリカはこれをすぐに承認し、その9年後にはメキシコの反対を押し切って、これを併合し、テキサス州としてしまった。50P
『・アメリカ合衆国の黒人奴隷制度は、植民地時代に始まったが、その全盛時代は独立した後のことであった。この繁栄は、アメリカ独立と時期を同じくしたイギリスの産業革命によるものである。その中心となった木綿工業では、原料となる綿花を大量に必要とした。綿作地帯は黒人地帯ともよばれた。』
「よく均整のとれた白い建物・・・・。高い円柱、広々としたベランダ、平たい屋根、それらは・・・あたかも貴婦人のように美しかった」
これはマーガレット・ミッチェルの「風とともにさりぬ」に描かれた大農園の邸宅である。まるで貴族の館のようだ。綿畑で働く黒人奴隷…その姿はこの小説ではでてこないが、かれらの貴族のような暮らしを支えていたのだ。
早朝から日没まで、怠ければ鞭が飛ぶ。
ストウ婦人。「アンクル・トムの小屋」57Pぜひ参照
それからリンカーンの時代へ。
<雑…以下自分用まとめ>
(ワシントン;バージニア生まれ。祖先はピューリタン革命でイギリスから逃げてきた)。
ジェファーソンは、独立宣言を下書きした政治家。1800年の選挙で、彼は3代目の大統領に選ばれる。このころ、ヨーロッパ中をまきこむナポレオン戦争がはじまっており、彼はどの国にも味方しない中立の立場をとり、国内を安定させる努力をした。フランスよりルイジアナを購入し、国土も2倍に広げた。
<その他>
奴隷制度について描かれた映画を借りてみた。
「マンディンゴ」と、「アミスタッド」
・「マンディンゴ」にあった南部地主のセリフ「奴隷制度は神が定めたというのに・・・」
・「アミスタッド」1839年頃だから、リンカーンが大統領になるちょっと前の話みたい。
・「風とともに去りぬ」も、南北戦争の頃の話みたい。今度図書館で借りてみる。
・南部の綿花→イギリス、マンチェスターへ
・はじめての植民地バージニア(1607)→11年後1961年にはオランダ船でバージニアに20人の奴→アメリカ大陸開拓進む→たばこ、サトウキビの生産→奴隷増える
・上の下や腕に所有者の焼印
・1661年。黒人奴隷を終身奴隷とする法律できる。もし奴隷が逃亡したら、磔や火あぶりもOKだった
コロンブスについて、まとめてみました。
もし訂正箇所等ございましたら、ご指摘のほどお願いいたします。
「女王様、私にお任せください」
スペイン女王の前に進み出た青年の目は輝くように燃えていた。
「この海をずっと西へ行けば、きっとインドにたどり着くはずです。必ずや香辛料を手に入れてごらんにいれましょう」
その男の名はクリストファー・コロンブス。
後にアメリカ大陸を発見した人物であった。
(注・彼がたどり着いたのはカリブ海に浮かぶ小島。この島が現在のどの島かについては諸説ある。また、実際にアメリカを新大陸であると認識したのはアメリゴ・ベスプッチである。今のアメリカの国名は彼の名をとってつけられた。ちなみにコロンブスは死ぬまで自分が到達したのはインドだと信じていた)
その頃、香辛料はインドでしか取れず、非常に貴重なものであった。しかし、当時は海を渡ってインドへ行く術が知られておらず、大陸を通していったので、非常に時間もお金もかかっていた。
当時は、世界は球体であるということが分かってきてはいたが、迷信を信じる船乗りの中にはまだ海は平らであり、海の向こうには魔物がいると考えている者もいた。
しかし、コロンブスは、この海を西へ西へと行けば、きっとインドにたどり着ける、そう信じていた。
コロンブスは、荒くれ者の船員を集めると、海(大西洋)を西へ西へと向かった。
延々と続く海。
どこまで行っても大陸は見えない。もう△日が過ぎようとしている。
船足が鈍った
広く生い茂る海域に迷い込んでしまったのだ。
「このままでは、ここから抜け出せなくなる」
船員は皆、動揺した。
ついに風もやんだ。果たしてこの悪魔の海域から抜け出せるのだろうか。動揺した船乗りは密かに計画をたてた。
「こうなったのも全部、あの大嘘つきのジェノヴァ野郎のせいだ。今夜、あいつを捕まえて海に落としてやろう。スペインへ引き返すんだ」
船内の不穏な動きを察したコロンブスは、その夜、船員ひとりひとりを部屋に呼んで、黄金の国ジパングや香辛料の国インドなど夢のような話をして、どうにか船員をおだて事をおさめたのだった。
船は前進した。
しかし、それでも海の向こうに地平線が見えることはなかった。
限界がおとずれた。
「コロン提督。あんたは、もうすぐ着く、もうすぐ着くと言っているが、陸なんてまるっきり見えやしねえ。俺たちゃあんたに騙されたんだ。あんたの大法螺はもうたくさんだ。今すぐ引き返すんだ。このまま航海を続けるつもりなら、俺たちにだって考えがある」
船員は殺気立っていた。もともと犯罪者やゴロツキばかり集めた野獣のような連中だ。殺すと言えば、本当に殺しかねない。
「今、俺を殺そうと思えば、殺すこともできるだろう。だが、オレを連れずに本国へ帰ったらどうなる?お前たちは犯罪者だ。縛り首になるだろう。あと3日だ。陸が近いのは間違いない。あと3日航海して無理なら引き返す」
コロンブスは約束しなければならなかった。
そして夜のこと。
闇の静寂を号砲が切り裂いた。合図の号砲だ。
「陸だ!陸が見えたぞ!」
目の前にうっすらと島の影が見えた。
「おお、神よ。あなたのお導きに感謝いたします」
コロンブスたちは島に上陸した。
大勢の島の住民が集まってきた。
「インドの原住民、インディアンだ」
近づいてきた原住民を見て、コロンブスたちはそう思った。
しかし、彼らはひとつ大きな間違いをしていた。
そう、コロンブスは死ぬまでその間違いに気づかなかったのだが、その大陸はインドではなかった。そして、カリブ海に浮かぶその島は、聖なる救世主という意味をもって、サンサルバドル島と名づけられた
先住民は、浅黒い体に白や赤のペイントをしていた。コロンブスたちを見ても怖がることもなく、微笑みながら近づいてきた、
彼らは実に穏やかで優しく、そして温厚だった。
彼らはオウムや投げ槍、つむいだ綿の玉などを気前よくくれた。彼らはコロンブスたちを天からやってきた使いであると信じ、コロンブスたちを丁重にもてなしてくれた。
彼らは欲のない純真な人間だった。彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだった。
コロンブスは思った。
「ここの住民は皆、親切で、疑うことを知らない。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう」コロンブスの日記には、次のように記されている。
「彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう」と。
コロンブスは神に感謝を捧げた。
「彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう」
コロンブスは、言葉と神を教え込むために、原住民を6人ほど連行した
次のような記述もある。
「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した」と。
コロンブスはこの島で略奪を働くと、さらに奥地、キューバ島、イスパニョーラ島を探検した。しかし、ここで船が座礁してしまったため、39人を残して、コロンブスらはスペインへ帰還した。残った39人は、ここで植民地を作った。
帰国後、宮殿では盛大な式典が催された。
教会の鐘がなり、皆が彼を祝福した。
沿道沿いの人々は、皆窓を開けて、コロンブスの顔を一目見ようとした。歓声とともに、たくさんの花束が宙に舞った。
コロンブスは興奮の絶頂だった。
女王の前に出たコロンブスは言った。
「私は神のお導きによってインディアスを発見しました。これよりは、できる限りの黄金を集め、野蛮な先住民をキリスト教に導くことを私に与えられた使命と考えます」
王、王女を初め、そこにいた者たちは皆、ひざまづき神への感謝の祈りをささげるのだった。
2回目の航海。目的は征服だった。
新しい土地を見つけて植民地を作ること。黄金を見つけること。そして先住民をキリスト教に改宗させることであった。
コロンブスの日記には、こうある。
「彼ら(国王、女王)が必要とするだけのありったけの黄金、彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」
コロンブスの目的。それは「黄金」と「奴隷」だった。
2度目の航海はよりいっそう残酷なものとなっていった。
楽園は地獄と化した。
かつての楽園は、もうここにない。
あるのは、人肉の焼ける異臭と、腐臭、絶叫と血の海だった。
楽園に舞い降りたのは天からの使いではなかった。
血と殺戮を好み、黄金を漁る悪魔そのものだった。
あまりに残酷すぎて、自分の文章で書くのはしんどいので、以下、ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」よりそのまま抜粋します。
「彼らは村々へ闖入し、子供や老人だけでなく、身重の女性や産後まもない女性までも、見つけ次第、その腹を引き裂き、身体をずたずたに斬り刻んだ」
「キリスト教徒はインディオの身体を一刀両断にしたり、一太刀で首を切り落としたり、内臓を破裂させたりしてその腕を競い合い、それを賭け事にして楽しんだ。母親から乳飲み子を奪い取り、その子の足をつかんで岩に頭を叩き付けたキリスト教徒たちもいた。また、大笑いしながらふざけて、乳飲み子を仰向けに川へ投げ落とし、乳飲み子が川に落ちると、『畜生、まだじたばたしてやがる』と叫んだ者たちもいれば、嬰児を母親もろとも剣で突き刺したキリスト教徒たちもいた」
「さらに、足がようやく地面につくぐらいの高さの大きな絞首台を組み立て、こともあろうに、我らが救世主と12名の使者を称え崇めるためだと言って、インディオを13人ずつ一組にして、絞首台に吊り下げ、足元に焚き火を置き、それに火をつけ、彼らを焼き殺したキリスト教徒たちもいた」
「インディオの身体を乾いた藁で縛り、その藁に火をつけ、彼らを焼き殺したキリスト教徒たちもいれば、インディオを生け捕りにしようとした者たちもいた」
「彼ら(キリスト教徒)は、木の叉に、小枝や枝で編んで作った鉄網のようなものを載せ、それに彼らを縛りつけ、網の下からとろ火で炙ったのである。すると領主たちは苦痛に耐えかねて悲鳴をあげ、絶望のうちに息絶えた」
「一度、私自身も、有力なインディオの領主が4,5人、そうして火あぶりにされているのを目撃した。領主たちが非常に大きな悲鳴をあげたので、隊長(カピタン)は哀れに思ったのか、それとも安眠を妨害されたからか、いずれにせよ、火あぶりをやめて絞首刑に処すよう命じた。ところが、彼を火あぶりにしていた警史は死刑執行人よりはるかに邪悪な人物で、領主たちを絞殺するのに承服せず、彼らが大声を立てないよう、口の中へ両手を棒で押し込み、それから火勢を強めた。そうして、結局、警史の思惑どおり、領主たちはじわじわと焼き殺された」(以上抜粋)
スペイン人は黄金に餓えた野獣だった。彼らは、インデイオたちに黄金を持ってくるように命じたが、この土地はコロンブスが思っていたほど黄金はなかった。黄金を持ってくることのできなかったインディオは悉く火あぶりにされたり、串刺しにして殺された。
他にも、とても読み進めていくことのできないほどの残虐な場面がこれでもか、というほどに出てくる。犬をけしかけてインディオを八つ裂きにさせたり、手足を切断したり、鼻をそぎ落としたり…。また、その犬の餌として大勢のインディオをまるで豚の群れのように、鎖でつないで連れて歩いていたという。スペイン人は、インディオを殺しては、その肉、すなわち人間の肉を公然と売買していた。「この犬に食べさせてやりたいので、そいつの四半分の肉を貸してくれないか?今度オレのインディアンを殺したら返すから」「やつらを15か20くらい、オレの犬に食わせたよ」という会話が日常のものだったという。
これが人間のすることか
幼い幼児の泣き叫ぶ姿を見ながら、一体彼らは何を感じていたのか
地獄の悪魔にだって、もう少しの慈悲、憐憫の情がありそうなものだ。
今、図書館に行けば、今でもなお偉人伝の一人として、コロンブスの伝記がある。
しかし、コロンブスを偉人として紹介するのは、終わりにしなければならない。
彼を偉人として紹介することは、残忍な仕打ちで殺されたインディオたちを二重に
陵辱することに他ならない。
少なくとも、伝記を書くような人物が、コロンブスの悪行まで調べないで書いたはずがない。知った上で、それを受け流して、あるいはぼかして書いているのは恐らく間違いない。コロンブスを偉人として紹介している人に対して激しい嫌悪を感じる。
また、ネットで検索すると、「コロンブス」と名のつくレストランや会社、スーパーが多い。彼らは、おそらくこうした事実を知らないで会社等の名称にしているのだろうが、実におぞましいし、無知よりきたものだとはいえ、憤りを感じる。
コロンブスは偉人だろうか?
間違っても偉人ではない。あるはずがない。
コロンブス。彼は、サイコパスにすぎない。
黄金に目のくらんだ血に餓えたサイコパス。それ以上の何者でもない
<自分用まとめ>
「コロンブス 講談社」
・200p。コロンブスは島に沿って船を進めたが、このとき遠くに陸地を認め、イスタ=サンタ島と名づけた。実際はそこが大陸だと気づかず島だと思ったからだ。こうしてコロンブスは偶然にもアメリカ大陸をかいま見たのだが、そのことを知らなかった。
・211p。ベスプッチ;南アメリカの大西洋岸に沿って航海し、コロンブスが島だと思った陸地が大陸であることを明らかにした。
・100~102、108~112、118~135、145,6、150~終
もし訂正箇所等ございましたら、ご指摘のほどお願いいたします。
「女王様、私にお任せください」
スペイン女王の前に進み出た青年の目は輝くように燃えていた。
「この海をずっと西へ行けば、きっとインドにたどり着くはずです。必ずや香辛料を手に入れてごらんにいれましょう」
その男の名はクリストファー・コロンブス。
後にアメリカ大陸を発見した人物であった。
(注・彼がたどり着いたのはカリブ海に浮かぶ小島。この島が現在のどの島かについては諸説ある。また、実際にアメリカを新大陸であると認識したのはアメリゴ・ベスプッチである。今のアメリカの国名は彼の名をとってつけられた。ちなみにコロンブスは死ぬまで自分が到達したのはインドだと信じていた)
その頃、香辛料はインドでしか取れず、非常に貴重なものであった。しかし、当時は海を渡ってインドへ行く術が知られておらず、大陸を通していったので、非常に時間もお金もかかっていた。
当時は、世界は球体であるということが分かってきてはいたが、迷信を信じる船乗りの中にはまだ海は平らであり、海の向こうには魔物がいると考えている者もいた。
しかし、コロンブスは、この海を西へ西へと行けば、きっとインドにたどり着ける、そう信じていた。
コロンブスは、荒くれ者の船員を集めると、海(大西洋)を西へ西へと向かった。
延々と続く海。
どこまで行っても大陸は見えない。もう△日が過ぎようとしている。
船足が鈍った
広く生い茂る海域に迷い込んでしまったのだ。
「このままでは、ここから抜け出せなくなる」
船員は皆、動揺した。
ついに風もやんだ。果たしてこの悪魔の海域から抜け出せるのだろうか。動揺した船乗りは密かに計画をたてた。
「こうなったのも全部、あの大嘘つきのジェノヴァ野郎のせいだ。今夜、あいつを捕まえて海に落としてやろう。スペインへ引き返すんだ」
船内の不穏な動きを察したコロンブスは、その夜、船員ひとりひとりを部屋に呼んで、黄金の国ジパングや香辛料の国インドなど夢のような話をして、どうにか船員をおだて事をおさめたのだった。
船は前進した。
しかし、それでも海の向こうに地平線が見えることはなかった。
限界がおとずれた。
「コロン提督。あんたは、もうすぐ着く、もうすぐ着くと言っているが、陸なんてまるっきり見えやしねえ。俺たちゃあんたに騙されたんだ。あんたの大法螺はもうたくさんだ。今すぐ引き返すんだ。このまま航海を続けるつもりなら、俺たちにだって考えがある」
船員は殺気立っていた。もともと犯罪者やゴロツキばかり集めた野獣のような連中だ。殺すと言えば、本当に殺しかねない。
「今、俺を殺そうと思えば、殺すこともできるだろう。だが、オレを連れずに本国へ帰ったらどうなる?お前たちは犯罪者だ。縛り首になるだろう。あと3日だ。陸が近いのは間違いない。あと3日航海して無理なら引き返す」
コロンブスは約束しなければならなかった。
そして夜のこと。
闇の静寂を号砲が切り裂いた。合図の号砲だ。
「陸だ!陸が見えたぞ!」
目の前にうっすらと島の影が見えた。
「おお、神よ。あなたのお導きに感謝いたします」
コロンブスたちは島に上陸した。
大勢の島の住民が集まってきた。
「インドの原住民、インディアンだ」
近づいてきた原住民を見て、コロンブスたちはそう思った。
しかし、彼らはひとつ大きな間違いをしていた。
そう、コロンブスは死ぬまでその間違いに気づかなかったのだが、その大陸はインドではなかった。そして、カリブ海に浮かぶその島は、聖なる救世主という意味をもって、サンサルバドル島と名づけられた
先住民は、浅黒い体に白や赤のペイントをしていた。コロンブスたちを見ても怖がることもなく、微笑みながら近づいてきた、
彼らは実に穏やかで優しく、そして温厚だった。
彼らはオウムや投げ槍、つむいだ綿の玉などを気前よくくれた。彼らはコロンブスたちを天からやってきた使いであると信じ、コロンブスたちを丁重にもてなしてくれた。
彼らは欲のない純真な人間だった。彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだった。
コロンブスは思った。
「ここの住民は皆、親切で、疑うことを知らない。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう」コロンブスの日記には、次のように記されている。
「彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう」と。
コロンブスは神に感謝を捧げた。
「彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう」
コロンブスは、言葉と神を教え込むために、原住民を6人ほど連行した
次のような記述もある。
「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した」と。
コロンブスはこの島で略奪を働くと、さらに奥地、キューバ島、イスパニョーラ島を探検した。しかし、ここで船が座礁してしまったため、39人を残して、コロンブスらはスペインへ帰還した。残った39人は、ここで植民地を作った。
帰国後、宮殿では盛大な式典が催された。
教会の鐘がなり、皆が彼を祝福した。
沿道沿いの人々は、皆窓を開けて、コロンブスの顔を一目見ようとした。歓声とともに、たくさんの花束が宙に舞った。
コロンブスは興奮の絶頂だった。
女王の前に出たコロンブスは言った。
「私は神のお導きによってインディアスを発見しました。これよりは、できる限りの黄金を集め、野蛮な先住民をキリスト教に導くことを私に与えられた使命と考えます」
王、王女を初め、そこにいた者たちは皆、ひざまづき神への感謝の祈りをささげるのだった。
2回目の航海。目的は征服だった。
新しい土地を見つけて植民地を作ること。黄金を見つけること。そして先住民をキリスト教に改宗させることであった。
コロンブスの日記には、こうある。
「彼ら(国王、女王)が必要とするだけのありったけの黄金、彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」
コロンブスの目的。それは「黄金」と「奴隷」だった。
2度目の航海はよりいっそう残酷なものとなっていった。
楽園は地獄と化した。
かつての楽園は、もうここにない。
あるのは、人肉の焼ける異臭と、腐臭、絶叫と血の海だった。
楽園に舞い降りたのは天からの使いではなかった。
血と殺戮を好み、黄金を漁る悪魔そのものだった。
あまりに残酷すぎて、自分の文章で書くのはしんどいので、以下、ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」よりそのまま抜粋します。
「彼らは村々へ闖入し、子供や老人だけでなく、身重の女性や産後まもない女性までも、見つけ次第、その腹を引き裂き、身体をずたずたに斬り刻んだ」
「キリスト教徒はインディオの身体を一刀両断にしたり、一太刀で首を切り落としたり、内臓を破裂させたりしてその腕を競い合い、それを賭け事にして楽しんだ。母親から乳飲み子を奪い取り、その子の足をつかんで岩に頭を叩き付けたキリスト教徒たちもいた。また、大笑いしながらふざけて、乳飲み子を仰向けに川へ投げ落とし、乳飲み子が川に落ちると、『畜生、まだじたばたしてやがる』と叫んだ者たちもいれば、嬰児を母親もろとも剣で突き刺したキリスト教徒たちもいた」
「さらに、足がようやく地面につくぐらいの高さの大きな絞首台を組み立て、こともあろうに、我らが救世主と12名の使者を称え崇めるためだと言って、インディオを13人ずつ一組にして、絞首台に吊り下げ、足元に焚き火を置き、それに火をつけ、彼らを焼き殺したキリスト教徒たちもいた」
「インディオの身体を乾いた藁で縛り、その藁に火をつけ、彼らを焼き殺したキリスト教徒たちもいれば、インディオを生け捕りにしようとした者たちもいた」
「彼ら(キリスト教徒)は、木の叉に、小枝や枝で編んで作った鉄網のようなものを載せ、それに彼らを縛りつけ、網の下からとろ火で炙ったのである。すると領主たちは苦痛に耐えかねて悲鳴をあげ、絶望のうちに息絶えた」
「一度、私自身も、有力なインディオの領主が4,5人、そうして火あぶりにされているのを目撃した。領主たちが非常に大きな悲鳴をあげたので、隊長(カピタン)は哀れに思ったのか、それとも安眠を妨害されたからか、いずれにせよ、火あぶりをやめて絞首刑に処すよう命じた。ところが、彼を火あぶりにしていた警史は死刑執行人よりはるかに邪悪な人物で、領主たちを絞殺するのに承服せず、彼らが大声を立てないよう、口の中へ両手を棒で押し込み、それから火勢を強めた。そうして、結局、警史の思惑どおり、領主たちはじわじわと焼き殺された」(以上抜粋)
スペイン人は黄金に餓えた野獣だった。彼らは、インデイオたちに黄金を持ってくるように命じたが、この土地はコロンブスが思っていたほど黄金はなかった。黄金を持ってくることのできなかったインディオは悉く火あぶりにされたり、串刺しにして殺された。
他にも、とても読み進めていくことのできないほどの残虐な場面がこれでもか、というほどに出てくる。犬をけしかけてインディオを八つ裂きにさせたり、手足を切断したり、鼻をそぎ落としたり…。また、その犬の餌として大勢のインディオをまるで豚の群れのように、鎖でつないで連れて歩いていたという。スペイン人は、インディオを殺しては、その肉、すなわち人間の肉を公然と売買していた。「この犬に食べさせてやりたいので、そいつの四半分の肉を貸してくれないか?今度オレのインディアンを殺したら返すから」「やつらを15か20くらい、オレの犬に食わせたよ」という会話が日常のものだったという。
これが人間のすることか
幼い幼児の泣き叫ぶ姿を見ながら、一体彼らは何を感じていたのか
地獄の悪魔にだって、もう少しの慈悲、憐憫の情がありそうなものだ。
今、図書館に行けば、今でもなお偉人伝の一人として、コロンブスの伝記がある。
しかし、コロンブスを偉人として紹介するのは、終わりにしなければならない。
彼を偉人として紹介することは、残忍な仕打ちで殺されたインディオたちを二重に
陵辱することに他ならない。
少なくとも、伝記を書くような人物が、コロンブスの悪行まで調べないで書いたはずがない。知った上で、それを受け流して、あるいはぼかして書いているのは恐らく間違いない。コロンブスを偉人として紹介している人に対して激しい嫌悪を感じる。
また、ネットで検索すると、「コロンブス」と名のつくレストランや会社、スーパーが多い。彼らは、おそらくこうした事実を知らないで会社等の名称にしているのだろうが、実におぞましいし、無知よりきたものだとはいえ、憤りを感じる。
コロンブスは偉人だろうか?
間違っても偉人ではない。あるはずがない。
コロンブス。彼は、サイコパスにすぎない。
黄金に目のくらんだ血に餓えたサイコパス。それ以上の何者でもない
<自分用まとめ>
「コロンブス 講談社」
・200p。コロンブスは島に沿って船を進めたが、このとき遠くに陸地を認め、イスタ=サンタ島と名づけた。実際はそこが大陸だと気づかず島だと思ったからだ。こうしてコロンブスは偶然にもアメリカ大陸をかいま見たのだが、そのことを知らなかった。
・211p。ベスプッチ;南アメリカの大西洋岸に沿って航海し、コロンブスが島だと思った陸地が大陸であることを明らかにした。
・100~102、108~112、118~135、145,6、150~終
ウィキペディアの「植民 バージニア州」を、自分の言葉でまとめてみました。
素人なので、すみません。間違ってる箇所ありましたら、ご指摘ください。
アメリカ。バージニア州のまとめ
16世紀末。イギリス人が本格的にアメリカへと入植を始めた。
彼らイギリス人は、この地に植民地を築くことを決意した。
そして、その地を、時のイングランド国王エリザベス1世にちなんで、バージニアと命名した(エリザベス女王は処女、すなわちバージンだったのでww)。
その後、イギリス人は、ここにバージニア商会という会社をつくり、本国よりこの地を開拓する植民者を呼び寄せた。105人の人間がやってきた。
彼らはバージニアにあるこの町を、時の国王ジェームズ2世にちなんで、ジェームズタウンと命名した。
しかし、そこは過酷な土地だった。
飲み水には塩分が含まれていたし、マラリアなどの疫病が発生しやすい土地であった。
わずか半年たらずで、飢えと病気で入植者は半分以下に減少した。1608年、生き残っていたのはわずか38人だった。
そんな彼らを救ってくれた存在・・・それがインディアンであった。
「全てを分かちあおう」
彼らは白人たちを親身になって世話をしてくれた。
水や食料を与え、トウモロコシの栽培を教えてくれた。
植民者たちは、インディアンのおかげで、どうにか命をつなぐことができた。
それにしても、バージニアは過酷だった。
疫病、飢餓。
気づけば、仲間はどんどん死んでゆき、1608年には38人にまで減少した。1618年から1622年までの間に、植民者の実に4人に3人は1年と生きることができなかったのである。
親身になって助けてくれたインディアン。
そんな彼らに白人がして返したもの。それは略奪であった。
白人はタバコを栽培を始めたが、タバコの生産は土地を痩せさせてしまう。白人は新たな土地を必要とした。目の前に、こんなに土地が広がっているではないか。インディアンの土地だ。
「インディアンには強腰でなければ有利な交渉ができない。銃の力で威圧しよう」
植民者は、親切にしてくれた先住民をどんどんと追い詰めていった。
ついに1609年、対立から戦闘へと発展した。
植民地の拡大に反対するインディアン。白人は彼らを徹底的に虐殺した。略奪、レイプ、殺人、放火。この地のインディアンはほとんど壊滅した。
これまでずっと、ここに住んでいたインディアンは、自らの地を追い出された。
その後、白人は再び、彼らの移った土地までをも奪い、平和的なインディアンを殺害し、ここにバージニア州のインディアンはほとんど壊滅した。
<奴隷をはじめて連れてきた日>
1619年。オランダ商人が黒人どれををバージニアに連れてきた。
これが、北アメリカに黒人が連れてこられた最初であった。
1680年以降、奴隷の輸入が増え、奴隷人口が増加した。そして、奴隷法ができていった。
素人なので、すみません。間違ってる箇所ありましたら、ご指摘ください。
アメリカ。バージニア州のまとめ
16世紀末。イギリス人が本格的にアメリカへと入植を始めた。
彼らイギリス人は、この地に植民地を築くことを決意した。
そして、その地を、時のイングランド国王エリザベス1世にちなんで、バージニアと命名した(エリザベス女王は処女、すなわちバージンだったのでww)。
その後、イギリス人は、ここにバージニア商会という会社をつくり、本国よりこの地を開拓する植民者を呼び寄せた。105人の人間がやってきた。
彼らはバージニアにあるこの町を、時の国王ジェームズ2世にちなんで、ジェームズタウンと命名した。
しかし、そこは過酷な土地だった。
飲み水には塩分が含まれていたし、マラリアなどの疫病が発生しやすい土地であった。
わずか半年たらずで、飢えと病気で入植者は半分以下に減少した。1608年、生き残っていたのはわずか38人だった。
そんな彼らを救ってくれた存在・・・それがインディアンであった。
「全てを分かちあおう」
彼らは白人たちを親身になって世話をしてくれた。
水や食料を与え、トウモロコシの栽培を教えてくれた。
植民者たちは、インディアンのおかげで、どうにか命をつなぐことができた。
それにしても、バージニアは過酷だった。
疫病、飢餓。
気づけば、仲間はどんどん死んでゆき、1608年には38人にまで減少した。1618年から1622年までの間に、植民者の実に4人に3人は1年と生きることができなかったのである。
親身になって助けてくれたインディアン。
そんな彼らに白人がして返したもの。それは略奪であった。
白人はタバコを栽培を始めたが、タバコの生産は土地を痩せさせてしまう。白人は新たな土地を必要とした。目の前に、こんなに土地が広がっているではないか。インディアンの土地だ。
「インディアンには強腰でなければ有利な交渉ができない。銃の力で威圧しよう」
植民者は、親切にしてくれた先住民をどんどんと追い詰めていった。
ついに1609年、対立から戦闘へと発展した。
植民地の拡大に反対するインディアン。白人は彼らを徹底的に虐殺した。略奪、レイプ、殺人、放火。この地のインディアンはほとんど壊滅した。
これまでずっと、ここに住んでいたインディアンは、自らの地を追い出された。
その後、白人は再び、彼らの移った土地までをも奪い、平和的なインディアンを殺害し、ここにバージニア州のインディアンはほとんど壊滅した。
<奴隷をはじめて連れてきた日>
1619年。オランダ商人が黒人どれををバージニアに連れてきた。
これが、北アメリカに黒人が連れてこられた最初であった。
1680年以降、奴隷の輸入が増え、奴隷人口が増加した。そして、奴隷法ができていった。




