観るか悩んでた映画『ラストマイル』を観てきた。
ドラマ『アンナチュラル』と『MIU404』と同じ世界線で、『カラオケ行こ!』の野木亜紀子さんが脚本を担当している。『アンナチュラル』と『MIU404』はそれぞれ好きな俳優が出ているため気になっているが、ドラマを見るのが苦手すぎて観れていない。『カラオケ行こ!』の映画が非常に良く、『ラストマイル』は「物流と労働」の話であるとのことで観たいが、ドラマを見てないんだよな〜と思って悩んでいた。それに映画って高いのだ。最近メンタルの調子があまり良くなく(良いことは少ない人生)、そんな時期に我慢することもないか、と思い観ることにした。
いやめっちゃよかった!!!!!!
地元のイオンの映画館に行ったんだけど、大きめのスクリーンで人も結構入っていた。ひとりで観に行って、両隣の席も空いてたので、我慢せずに後半ずっと泣いていた。私は感情的で興奮しやすいうえに、感情が昂ると泣いてしまうタイプなので、映画を人と見るのが好きだが苦手である。泣いてるところを見られるのは恥ずかしい。
主人公は大手通販会社デイリーファスト(デリファス)の関東のロジスティクスセンターにセンター長として赴任してきた舟渡エレナと、チームマネージャーの梨本孔。エレナの勤務初日、ブラックフライデーの前日に、彼らのセンターから発送された荷物が爆発し事件になる。相次ぐ爆発の犯人を探す警察と、物流を止めて会社の損害になることを必死に防ぐエレナ、大手会社に圧をかけられる配送会社。「うちの荷物で爆発などありえない」と言い切り、捜査協力より会社の利益(そして自分たちの立場)を優先するエレナの態度に、最初私は唖然とした。人が死んでいるというのに、どう考えても誠実な態度とは思えない。彼女の上司に当たる、日本本社の総括本部長五十嵐は、最初の爆発物である会社製のスマートフォンの配送を一旦止めたエレナを非難する。エレナはエレナで、配送会社に罪をなすりつけて、自社の被害を最小限に抑えようとし、強い口調で配送会社の所長に圧をかける。前半(後半もだが、違う意味で)は本当に観ているのが辛く、苦々しい思いだった。というのも、彼らのスタンスというのは、私がいつも嫌だなと思っている社会のスタンスだったから。けれど、苦々しい思いを噛み締めながら観ていると、そう言う風に思って、自分はそこに与しないぞ、と思えるということは、特権なのではないか? とも思った。この社会で生きている以上、私と彼らに何の違いがあるのかと言う話。もちろんだからそれが良いことだと言っているのではない。それはやっぱり良くないことだと思うけど、だから私はそれをしない、で済む話ではなく、どうしてそんなことになっているのか? ということ。彼らが利己的で、あるいは道徳心に欠けていて、そのために起こっているのではない。決してない。
例えば、修行僧や聖職者を考える時、私は「では、社会のシステムを担う一般の人々はどうなるの?」といつも思う。もし、自分が高潔な生き方をできたとして、それは人間社会を機能させる無数の人々の上で成り立っており、孤立した場所で清らかなものを目指すよりも、そういった乱雑とした社会の中で考えてゆくことが大切なのでは? って思う。
何重もの抑圧があるのも観ていて辛かった。アメリカの本社のサラから東京支社の五十嵐への抑圧、五十嵐からエレナへの抑圧、そしてエレナから配送会社への抑圧、さらにその下には、安い賃金で働くドライバーたちがいる。
最近はいろんな本を併読していて、そのうちの一冊に冨原眞弓さんの『シモーヌ・ヴェイユ』がある。ヴェイユは労働者問題に強い関心があり、劣悪な工場での勤務の日記なども残している。私自身はもとの本を未読なので冨原さんを通した解釈になるが、『自由と社会的抑圧』という初期の論集についての章では、このように語られる。
資本家が傘下にある労働者を搾取するのは、享楽と消費への欲求のゆえではなく、競争相手の企業に打ち勝って、かぎりなく事業を拡大する欲求にかられているからだ。労働者の従属は、仮借なき競争原理が要請する生産構造にもとづくものであって、ここの資本家の貪欲や正義感の欠如のせいではない。
私有財産制を廃止したところで、国家間の競争がなくならない限り、労働者の搾取は形を変えるのみで消えはしない。そして「自分は自由のために生まれたのたまとかんじずにはいられない」人間は、「自分の欲求の充足をはばもう」とする「統制できぬ異質な(他者)の意志」を制圧することを願う。「かくて権力闘争に終わりはない」。
じゃあどうしたらいいの? という話である。ヴェイユは労働者への教育により、自身の仕事内容を把握し、能動的に働けるようにして自尊心を蘇らせることなど改善策を提示するが、その後工場経験を経た上で、結局はっきりとした答えが出たわけではなかった。(間違ってたらごめん。ちゃんと元の本も読みます)。
ちょうどタイムリーな本で、映画を観ながら(そして泣きながら)ヴェイユのことを考えていた。一応働いている人間として、労働の問題というのが私の今の大きな関心の一つなのだと思う。
事件を辿っていくうちに、やがて彼らはデリファスの工場内で飛び降り、植物状態にある人物、山崎佑に行き着く。彼はロッカーにメモを残しており、意味はわからないが「消してはいけない」と、前任者たちから梨本まで、脈々と受け継がれている。「2.7m/s 70kg→0」と書かれたメモ。2.7m/sとはベルトコンベアーの速度であり、70kgは重量制限。彼はベルトコンベアーの上に落下した。彼はベルトコンベアーの速度を0にしたかった。
五十嵐は山崎が死んだ直後に、彼の遺体を動かしてベルトコンベアを再起動させる。人が死んだ後のベルトコンベアに乗せられた荷物たちが何食わぬ顔で運ばれて行く。人間ひとりの死ごときで、止められる構造ではない。五十嵐はさらに、まだ意識のあった入院中の山崎に、誓約書にサインをさせる。これで彼や彼の家族は、デリファスを訴えることはできない。こうして一時は、彼の身をもってなされた抗議は黙殺されることとなる。しかも、彼の死の原因はデリファスではなく、交際中であった女性にあるとすらされてしまう。彼女はデリファスを訴えようとするが彼の親に罵倒され引き下がる。それでも諦めきれなかった彼女は、アメリカにいた舟渡エレナに掛け合いに行くが、断られてしまう。「私が原因なら贖う。けれどもしそうじゃないなら、世界は購ってくれるんですか?」そうエレナに訴えかけた彼女は、デリファスと世界に復讐をする。爆破事件を引き起こすことにより、彼の死の罪を贖わせようと。
事件の中で、押さえつけてきた抑圧的な社会(自身も加害者であり被害者でもある)への違和感を受け入れたエレナは、事件の真相を突き止めたうえで、配送会社と協力し、五十嵐を配送会社の配送料値上げの議論の席に付かせることに成功するが、自身は解雇となってしまう。しかし、エレナは孔にあのロッカーの鍵を託した後、清々しい顔で去ってゆく。
前半は、社会構造によって良心を捨てざるを得ない私たちへの居心地の悪さ、後半はそんな私たちのなかに本来はあったはずの温かみ、エレナの取り戻したその温度への切なさを感じた。焦ったようにロッカーのメモを探し、山崎が飛び降りた柵越しにベルトコンベアーを見つめる五十嵐の姿も印象的だった。彼は一体何を思ったのか。私は悪を人間ではなく構造へ置く作品が好き。人間を悪たらしめるものへのクエスチョンを提示してくれた映画であり、そこが本当にこの映画の素晴らしいところだと思う。
温度を取り戻したエレナは、アメリカの本社へも戻らず、また一からやり直すことを決意する。希望に満ちた終わりだが、エレナが必死に築き上げてきたものを手放さなければならなかったのも事実。それは虚構のものだったかもしれないが、賃金というのは生活に直結するものだ。みんながみんな、エレナのように良心を勝ち取れるわけではない。しかし、彼女がほんの些細な変化をもたらすことができたのは、労働者同士の連帯があったこそだろう。ひとりだけで立ち向かうのでは押しつぶされてしまうのがオチかもしれない。実際デリファスで自殺してしまった彼はそうだった。それでも、彼の死がもたらした波紋は様々なものを引き起こした。良いことも恐ろしいことも。そうしてその波紋はエレナの心を動かして、彼女たちに連帯を促した。そこにあるのは共感であると思う。「私たちは同じレールの上にいる」。
良心を選択することによって生活の基盤を失う、あるいは自身の命すら失ってしまう社会構造への途方もない気持ちと怒り、悲しみ、そして社会構造によって翻弄される人々への共感と連帯を感じる映画だった。
と、私は感じました。しかし私の理解の限界はいまのところここ、という感じ。私が生きているうちにはっきりとした答えが出る問題ではない、どころか、多分永遠に答えは出ないんだと思う。私たちにできるのは、日々調整を続けること。立ち止まって考えること。そしてなにより、行動することなんだろうな。
エンタメ作品としてもめっちゃ面白かった。二転三転する推理、リアリティーがありながらキャラクター性もある登場人物たち。女性監督、脚本、プロデューサーだったためか、女性たちがひとりの人間として描かれていていやらしさがないのも好きだった。ドラマシリーズのファンはドラマキャラが出た時はすごくテンションが上がっただろうな。ドラマちゃんと観たい所存……。
パンフも買ったのでちゃんと読みたい。パラパラと少し読みはした。ちゃんと読んだら考えはまた変わるかもしれない。とりあえず観てすぐの熱々の感想でした。
