一部で話題になっている「ミッドサマー」
同じくジャンル系好事家が大絶賛の「ヘレディタリー/継承」の
アリ・アスター監督の二作目。

初日に劇場へ駆けつけ「祝祭」を体験したが、
単純な良し悪しや、好き嫌いを越えたもやもや具合が残った。
ひと晩考えたら、何故か村上春樹の長編に通じていた。
感覚的な繋がりであり、多分誰にもわかってもらえないだろうけど、
なるべく客観的に類似点を並べてみる。

 

【アリ・アスター、村上春樹類似説】

 

●明確なスタイルとコントロールで見事なストーリーテリング

 

小説で言うところの文体が明確にある。
それはカメラの動きやカット繋ぎ、色彩感覚、小道具や衣装などを含む

描写全体のスタイルだ。
それらを必要に応じて選択して、
物語全体の語り口として、巧みにストーリーテリングする。
特異なスタイルそのものよりも、「選択」の巧さが際立つ。

 

●細部はリアルだけど行間が多く、物語全体の抽象度が高い

 

ストーリーテリングに必要なスタイルを駆使して、細部をリアルに仕上げる。

必要に応じて容赦なく徹底して描写する。例えば暴力や性など。

でも同時に俯瞰的な客観説明をミニマムにするため、
全体像が隙間(行間)のある隠喩(メタファー)となり、虚実の入り混じった抽象度が生まれる。

 

●深読み可能なマジックリアリズム感

 

細部はリアルなんだけど、全体としてファンタジックなマジックリアリズム。
予定調和な展開や補足説明がないため、鑑賞者の隠喩の示すものを探し求めて、
物語の奥底にあるものを勝手に深読みして。
概して説明過多な物語よりも、説明されない不安定な物語の方が
個々がロジックを駆使して、物語自体の安定化を図ろうとするため、
時代を越えても陳腐化しない強度が高い。

 

●ポップカルチャーからのレファレンスに溢れている

 

確信犯的な引用、例えば「ミッドサマー」の場合
「ウィッカーマン」や「楢山節考」の物語をなぞり、
ベルイマンをスタッフ、キャストに見せたとか、あからさまの参照もある。
同時に無意識にこれまで人生で吸収してきたポップカルチャの断片がちりばめられている。
「ミッドサマー」と「ウィッカーマン」の関係性は
「騎士団長殺し」と「華麗なるギャツビー」に似ている。

 

●セックスと死がテーマの根幹

 

常に身近な存在の死にまつわる物語だ。
死と生の狭間で、あるべきものの消滅によって物語が動き始める。
セックスが単なる生殖行為としてではなく、救済や儀式的な意味を持つ。

セックスと死によって構成されるのが家族だ。

血の繋がりの有無によらず家族という共同体が全ての者に降りかかる呪縛となる。

呪縛からの解放もまた物語の基本となる。

 

●常に同じ話のヴァリエーション

 

「ヘレディタリー/継承」と「ミッドサマー」は粗っぽく言ってしまえば、同じ展開だ。
村上春樹の長編も主人公や設定に違いあっても、
常に主人公が何らかの形で異世界へと繋がり、帰ってくる地獄めぐりなのだ。
まさしく、テーマの根幹をなす死を経て、異世界を旅する物語なのだ。


●日常的な欠片を基に地下へ降り、水脈を掘り当てる識閾下の物語

 

つくり手が物語紡ぐことは、地下、即ち意識の下にある物語の水脈を掘り当て、
それを形にすることと村上春樹は繰り返している。
最初のモチーフとなる断片は日常であっても、
いったん地下へ降りると、物語が何処へ向かって進むのか、
何処にたどり着くのかが全くわからない識域下の営みとなる。
アリ・アスター監督の作品中で繰り返される身内の死は実体験らしい。

記憶を物語として昇華することがある種の救済につながる。

地下に降りることにこそ、救いの道がある気がする。
観客がそれを味わい、読み解くことは地下にある何かに近づくことになる。
結果的に救済や癒しになるかは兎も角、過程こそが物語の持つ根源的な力となる。


作家と映画監督、作風は全く異なる。
そしていくつか挙げた類似性といっても、
殆どの人にとっては、単なるこじつけに近いだろう。
何となく似ている触感とか、既視感みたいなものに近いかも知れない。
いつかこの二人が交錯することを妄想してしまう。