ほんと人は自分の見たいものしか見ない。
原題は肯定のない「Denial」。こんな時には辞書が重宝する。

1.〔相手の主張や陳述などの〕否認、否定
2.《法律》〔罪状の〕否認
3.〔物や関係などの存在の〕否認、否定
4.〔要求などの〕拒否、拒絶
5.《心理学》否認(受け入れ難い状況を認めようとしない防衛機制)
6.自制、克己

まさしく原告、ホロコースト否定論者であるデイヴィウッド・アーヴィングの行動そのままだ。
彼は自分の見たいようにしか歴史を見ず、
著書にてそれこそが正論であり、あたかも真実であるかのように既存の歴史を否定する。
ちょっとややこしいのは、この映画がホロコーストという史実の有無を法廷にて争っているのではない。
ホロコーストは歴史学者、世間における周知の史実であることが前提である。
「ナチスによる大量殺人は真実か、虚構か」というチラシに躍る文句自体がおかしい。
歴史を自己都合で歪曲して、自分が見たいように改変する者が否定論者だ。
だからホロコースト否定論の著書を非難したユダヤ人歴史学者デボラ・E・リップシュタットを
あくまでも名誉棄損で訴えている。
訴えられた側に立証責任があるという英国の司法制度が更にややこしくする。
リップシュタットはアメリカ人なので、原告側に立証責任があるのが通常なので全く逆。
また陪審員制ではなく、判事による公判と裁判劇であり、原告側が弁護士を立てずに
自ら論証をおこなうという原告と被告(弁護士チーム)、判事という三者による絞られた展開となる。
事前に知らないとちょっとややこしい設定かもしれない。
どうしても映画で登場する法廷劇といえば、弁護士同士の弁舌一本勝負、
あるいは陪審員を絡めての娯楽として善悪を誇張した活劇性の高さが思い浮かぶが、全く異なる。
名誉棄損をネタに論争を引き起こし、自分の主張する否定論に注目させ、発言や事実関係の矛盾を
これ見よがしに追及して、世間を騒がせることが目的。
その結果、自説こそがまるで真実であるかのように世間へアピールすることなのだ。

映画は非常に誠実な語り口で物語を進める。
開廷にあたり、アウシュビッツの現地への見聞を描くことで、
ここで実際に起こった史実を観客へと突きつける。
英国人や欧州人によってこの地へと足を運ぶことが、ダークツーリズムではないが、
どれ程度の頻度なのかはわからないが、少なくとも世界の多くの映画観客たちは、
歴史として認識していたり、映画の舞台として収容所が登場したりと、
一見馴染みなようで、実は殆どが未体験ゾーンであることは確かだろう。
まずはその現場を突き付けて、事実としての認識を植えつけてから、物語をスタートさせる。
目の間にひろがる光景を疑うことが目的なのではなく、その映像こそが全てを語るのだ。
そして、ちょっと特異な裁判劇として法廷での弁護士団の手腕の見せ所が続く。
通常の裁判劇と異なるのはリップシュタットは何も語らない。
裁判中はひたすら黙秘を貫く。
また論議となっているホロコースト生還者もまた一切証言台に上がらせない。
ホロコーストそのもののへの否定、肯定という言及からは距離を置く。
多弁ではなく、沈黙こそがものを言う裁判劇には驚いた。
裁判での弁護士の論点は、アーヴィングの著書の記述と残されている客観的な記録(アーカイブ)
との矛盾箇所を指摘して、意図的な改変を指摘して、その表記の信ぴょう性を突く。
その事実から、意図的な改変、即ち隠された彼の嘘を暴き出す。
常に沈着冷静なトム・ウィルキンソンとふてぶてしいティモシー・スポールの役に徹した存在感が
常にぶつかり合い、映画的にはベテラン二人による演技合戦でもあり、観客を退屈させない。
逆に静かな裁判劇が多くを語るのだ。
最終的に否定論者の告訴を取り下げ、判決が出て、ようやく彼女は口を開く。

どんな民族、国家にも黒歴史が存在する。
歴史は戦争や侵略、略奪、大量殺戮など人の持つ暴力性故に常に血塗られている。
特定の民族や国家のみに起こりうることではない。叩いて埃の出ない国はない。
確かに歴史とは、文書や記録など客観的な事実を積み重ねた最大濃い約数なものであるが、
勝者によって確定された主観的な事実に過ぎない。
でも、なぜそれを否定するのだろうか?
意図的に見たい歴史のみを見たがるのだろうか?
自分のみたいように屁理屈を並べて、事実を捻じ曲げるのだろうか?
この問題は決して他人事ではなく、現在の日本においても、
歴史を改変したがる、史実とされているものを否定したがる輩が目立ち、
ネットによる情報交換手段の高速化も伴い、
尾びれ背びれが付け加わったデマや暴論の流布速度、範囲も加速度的に進む。
見たいものしか見たくないのは人の本性であっても、理解不可能で同意できることではない。
現在の邦画において、同じような歴史否定論者をテーマにした作品は厳しいだろう。
もちろんつくりたいという誠実な人はいても、
思想的、興行的なリスクを冒してまでその一歩へ踏み出す人はどれ程いるのだろうか?


偏愛度合★★★