「人生は祭りだ」と言ったのはフェデリコ・フェリーニ。
アレハンドロ・ホドロフスキー監督の歩んできた人生をシリーズ作品として再現する、
過去の再構築の自伝映画はまるで祭りのようだ。
正確にはフェリーニの言葉の後には「共に生きよう」とある。
88歳で作品を撮り続けているホドロフスキー監督から、同じ時代を生きる観客へのメッセージに思える。
もちろんホドロフスキーとフェリーニは10年くらいの年齢差があり、
彼がフェリーニをフォローしているわけでも、作品から直接影響があるわけではないだろうが、
映画監督が記憶に潜む自伝的な断片をリアリズムラインでなく、イマジニティブに再構築すると、
夢や幻想、虚構と現実子機、過去と現在が境界線なしに繋がるマジックリアリズムな作風へと向かう。
不思議と見世物小屋やサーカス、大道芸人、小人、カーニバルといったモチーフも共通する。
「エンドレス・ポエトリー」は、幼年期を描いた前作「リアリティのダンス」から続く、自伝映画の第二部。
全何作で完成するのかは不明だけど、失礼ながら88歳という御年を考えれば、本人はお元気そうだが、
祭りをいつまで続けられるかという死神とのチキンレースを繰り広げている状況かも。
何とか最後まで完遂して欲しいものだ。
少なくともホドロフスキーの作品と共に生きてきた者たちにとっては、
心の底からの念願であり、第三部以降の公開をひたすら待ち続けるしかない。

生まれ故郷からチリの首都サンティアゴに場所を移し、そこでの日々を成長通しながら、
ポエマー青年のポエム開眼と筆おろしの物語だ。
青年ホドロフスキー演じているのは血縁の息子という身内。
当然顔立ちもそっくりで、監督自身もは彼の黒子として、時として人生を導く役柄で劇中に登場する。
他にもエンドクレジットでも「ホドロフスキー」姓が延々と流れ、身内で固めている血が濃ゆすぎる作品。
いったい誰が監督とどんな属性の身内なのか全く見当がつかない。
まるでホドロフスキー家のホームムービーのようだ。
またチリ、フランス、日本の合作ながら、クラウドファンディングで製作資金
を集めるなど、
ほとんどノリは自主映画に近い雰囲気があり、人生という祭りの終えるにあって、
過去と向き合い、自分が思うがままに製作した、
後世の観客へ残す映画の形をとった遺言書のつもりなのかもしれない。

記憶とは常に自己都合で改変されているのが常である。
生きるためにあるがままの事実は必要なく、記憶のフォルダーに収まられる前に、
必ずフィルタリングされ、情報の取捨選択、部分強調と削除、事実歪曲、隠蔽などの過程を経る。
思いでは必ずしも事実ではない。
それをさらに映画的な「物語」として再構築するのだから、
さらなる事実変更やドラマツルギーな誇張が加速するため、
さすますリアリズム(事実)から離れ、マジックリアリズムへと接近する。
語り口の手法もそれに準じて、リアルさを強調しない。
張りぼての列車や書き割りの商店など、殊更舞台劇のような背景に登場人物たちを置く。
でも薄っぺらい舞台装置だからこそ、そこに息づく人物の言葉や内面が切実に浮かび上がる。
詩の言葉に魅せられ、言葉が世界を変えると信じて、詩人(ポエトリー)の道へと進む主人公。
社会から外れた異形の者たちと出会い、恋をして、筆おろし、少しだけ大人になりつつ、
やがて現在自分が身を寄せている狭い世界からの脱出を試みることを思う。
最後には商売を営む息子に厳格な父に支配された父権性を断とうと両親との決別を試みる。
描写の細部は幻想的でナンセンス、監督自身が劇中で登場して観客に語り始めるなど、
リアリズムからは大きく逸脱した構成だけど、物語の基本はビルドゥングロマンの王道を貫く。
人生は祭りだとの言葉の通り、
最後には生者と死者が、髑髏と深紅が踊り狂うカーニーバルシーンへとなだれ込む。
本来脚本にあったわけでなく、ロケ地で偶然に出会い、
そのまま劇中のクライマックスとして流用したそうだ。
それなのに狙ったかのような物語の整合性は映画も人生もまたは祭りなのだ!
物語のラストシーン、両親と別れ、船で一路パリへと旅立つ。
実世界ではそれ以来再会を果たせなかったわだかまりを抱いていた父との
ありえたかもしれない姿を再現して見せる。
その意味では悔やんでいた過去の改変でもある。
桟橋を離れ、徐々に船(到底パリにはたどり着けない張りぼてのようなポンポン船)が進んでいく姿は、
またしても偶然の一致でフェリーニ「そして船は行く」なのだ。

偏愛度合★★★