ちょうど世代的には東西狂乱の漫才ブームを過ごしながらも、当時は傍観者に過ぎず、
真面目に漫才を舞台はもちろん、放映ですら堪能した記憶がない。
同様に人を壇上から笑かすという漫才師という職業自体に左程興味が薄いため、
最初映画を見終えてもピンとこなかった。
実は映画には観賞中や直後にがっつんと衝撃が来るタイプと後から徐々にじわじわ来るタイプがある。
これは明らかに後者。
漫才という人を笑かす、笑いをテーマとした映画なのに上映中クスリとも笑えないのが可笑しい。
そのことに気が付いた時から、作品の印象ががらりと変わった。
単なる20代から30代に至る10年間の甘苦い青春回想録ではなく、
笑いというオブセッションに囚われた者たちがひたすらもがき苦しむ、青臭くも残酷で悲痛な記録なのだ。
ひたすら笑わせることに執念を燃やす。
全編ガチで張りつめた空気感が漂う。
もちろんそれは笑いの世界の内側にいる板尾創路監督ならでは執念だ。
又吉直樹の原作を自らの演出と脚本(共作)で挑んだのは、
その辺の雇われの職業監督には絶対譲りたくないとう意気込みなんだろう。
同時に単なる凡百の「感動」「青春」物語にはしたくないという強い意志に違いない。
俳優としては一流であっても、漫才師ではない素人の主演二人をプロの漫才師を相方に配して、
演技ではなくガチに漫才をさせたのが画面の迫力から伝わってくるのだ。
ラスト舞台での通しの漫才を細切れにしたカット割りで胡麻化さずに長回しで記録するなど、
演じる方も撮る方も真剣勝負だ。
観客も同様に仕込みではなく、素のリアクションらしい。
漫才で観客を笑かすという行為一見シンプルで反応がストレートで返ってくるだけに、
実にわかりやすいのだけれども、その一瞬のために裏に隠された人間模様がある。
ボケとツッコミという様式美を基本とする漫才を脱構築しようとする異端の天才神谷。
彼に魅せられ弟子として付きまう徳永。菅田将暉のチンピラ感が抜群に上手い。
二人の関西弁での掛け合いも完璧だ。
作品自体が笑いへのメタフィクションとしてとらえればいいのか?
ネタをつくる、練習する、舞台で披露する、名が知れて、興行的に売れるという流れの背景にある、
風呂なし四畳半のアパートの貧乏暮らし、女性に財政を依存するひも生活、
いつまで経ってもなかなか目が出ないことへの焦燥感などがきれいごとではなく、生々しく描かれる。
その世界を目指した者ならば、誰しも思い当たる内側の視点に徹している。
会場での瞬間の笑いのために途方もない人間模様が存在するのだ。
そう、笑いを別の何かに置き換えれば、映画的な普遍性を持つ。
それは例えば映画製作であったり、ボクシングなどの格闘技であったり、
音楽演奏であったり、書くことであったり、何でも置き換えが可能だ。
偏愛度合★★★