35年前に「ブレードランナー」を公開時に劇場で観た世代だ。当時16歳の高校生。
ちょうど一人で映画館や名画座へ通い始めた頃で、
日曜日の朝一番の上映に合わせて、郊外から電車を乗り継ぎ、都心へと出向いた。
今は無き梅田グランドという現在は梅田花月のビルの地階にあった劇場だった。
満席で最前列しか席をとれずに、一番前からスクリーンを見上げるようにして体験した。
ディック諸作品に出会うのはもう少し後でだったけど、
当時レイモンド・チャンドラーなどの翻訳ハードボイルド小説に夢中だったので、
デッカードの私立探偵のようなモノローグとコート姿に短銃(ブラスター)を構える姿のカッコよさ、
何よりもこれまで見たことない西欧とアジアが入り混じった未来のビジュアルにしびれた。
その後、LDからDVDへ複数のバージョンが登場するたびに飽きもせずに散在してきた。
不思議と何度観ても新しい発見があるものだ。
82年当時は客の不入りで打ち切りという表記を見ると、あの満席で見上げたスクリーンも
地下の劇場から出て、明るい通りで心高鳴った記憶もまた後日インプラントされたものかも知れない。

映画館で観る映画には動体視力が求められると某評論家が主張していた。
DVDやネット配信など反復装置で再生しない限り、1秒間で24コマが見るはしから消えていく。
一つの画面に込められた一瞬一瞬の情報を捉えるのが観客であり、
動体視力がとらえた画面の運動を記憶するのだ。
IMAXデジタル3Dという現行で最高スペックの劇場で初回観賞したが、
画面の隅々まで配された情報量が圧巻で大まかなプロットを追うだけで精一杯となり、消化不良。
結局細部を再確認するために、今度は2Dの標準的な劇場でおかわり観賞。
ようやく物語の流れ、台詞や背景、音楽、といった細部に配された仕掛けを楽しむことができた。
二度目はライアン・ゴズリングのあまりの悲痛さにラストでは涙してしまった。
2時間43分という長尺ながら全く飽きさせない。これはまだまだおかわりもいけるぞ。

二度の観賞でも印象派変わらなかった。
前作をぶれることなく正しく引き継ぎ、新たなる物語の紡ぎながらも、
ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家性を打ち出した文句なしの正統的な続編であることは間違いない。
「2001年の宇宙の旅」にとっての「2010年」には陥らなかった。
同時に82年製作の映画は、劇中の舞台となる2019年を間近にしても色あせることなく、
新鮮であるという類まれで途轍もない凄みを改めて認識した。
35年の時間を何とか生き抜いてきた良かったとすら感涙。

◎KD6-3.7
ライアン・ゴズリングが演じるKの全編通してのどうしようもない悲痛さこそにこそ作品の根幹がある。
その名の通りP.K.ディック由来だろう。
彼が生涯賭けて書き続けた本物と偽物、現実認識とその崩壊といったテーマが貫かれる。
そして同様にカフカのヨーゼフKでもあろう。
再観賞した「複製された男」で提示される「カオスとは未解読の秩序」であるという一文とも繋がる。
不条理で混沌たる世界でどこにも拠り所なく、一人生きる。
記憶はインプラントされたもので、結局のところ自分が何者かすらわからない。
上司の命令には絶対服従で、不要レプリカント処理という汚れ仕事を請け負い、
LAPDの同僚からさえも「スキンジョブ」と罵られる。
常に傷つき、血を流し、ボロボロになりながらもながらも、
レプリカントでありながらも、レプリカントを処理するという人間にとっての秩序を守ろうと努める。
ブレードランナーという仕事を通じて秩序に殉じることが、全ての公僕だ。
唯一の慰みは実体はない、データーのみのホログラムの恋人であり、やがてそれすらも破壊される。
微かな希望は自分が製造されたレプリカントではなく、デッカードとレイチェルの子ではないかという思い。
自分の中の記憶を頼りに父探しを始める。
ヴィルヌーヴ監督の傑作「灼熱の魂」に似た、自らの出生のルーツを探る物語である。
旅路の果てに提示される結末にはもう涙するしかない。
初めてヴィルヌーヴ作品に接したのが「灼熱の魂」であり、その時の容赦ない衝撃を思い出した。
これほどまでに悲痛な、不遇でつらい境遇の主人公も珍しい。
観客が共感できる物語の視点とその行動が明確で、
モーションとエモーションが見事に一致している本当に見事な脚本だ。

◎オッサン接待
細部に配されたオッサン接待も手抜きなし。
前作と共に歩んできた自分くらいの世代への目配せも抜かりはない。
作品の冒頭、再び瞳の超クローズアップから始まる。
誰の目なのかは明らかにされないが、ツカミとしてはこれ以上のシーンはないだろう。
高層ビルの合間をスピナーが飛び、お馴染みの雨が降り注ぐ、ごちゃ混ぜのエスニックな街の風景なども
きっちりと再現されながら、後半は雪や砂漠の中の廃墟といった新イメージへと繋がっていく。
Kが物語の最初で処理する旧型の生き残りモートンも前作でカットされたシナリオの再現らしいけど、
それはマニアックすぎてついていけない。
手に止まる蜂、ガフなど懐かしい顔ぶれの登場にもニヤリと笑った。
ヴァンゲリスの音楽のここぞという時の使用も同様だ。
根強いファンを有する物語の続きの場合、ファンへの目配せや接待は欠かせないが、
それだけでは留まらない新たなる作品の世界観(ビジョン)と物語の語り口(ストーリー)にこそ意味がある。

◎多くを語らない演出
ヴィルヌーヴ監督作品には共通しているが、台詞や補足説明で多くを語らない。
今作も言葉よりも相棒である撮影監督のロジャー・ディ-キンスの光や色使い、映像美で魅せる。
例えばデッカードレプリカント問題への回答へも明確な解釈を提示しない。
ウォレスとの意味深な会話劇のも観客が自由に解釈できる余白を設けている。
余白こそが本来映画の持つ力を強くする。時として説明の過剰さは興を割くことになる。
物語のカギとなるレイチェルも旧約聖書の登場人物であるラケルと掛け、より深読みさせられる。
調べてみると子供を授からなかったヤコブの妻ラケルがベツレヘムへの旅の途中、
神の言葉によって身ごもり、男子を産むが難産で命を落とすというそのままの話らしい。
西欧の物語の根幹にあるのが聖書内で書かれたエピソードであることを痛感。
自らの動体視力を駆使して、更に培った知識を総動員して、解釈してもまだまだ謎と余白が残る。
そして鑑賞後も、誰かの解釈もその助けとして読みふける。
本当にすぐれた物語は、例えば「宝島」のように、常に語り継がれ、解釈され、
再び別の物語へと再構築されていくものなのだ。


偏愛度合★★★★★