何とももどかしい作品である。
決して映画的な技巧を張り巡らした、所謂巧い作品ではない。
主人公ふたりの不器用で素直に真っ直ぐには進めない、
もどかしさ、ややこしさが愛おしくなってしまい、作品もまた同様なのだ。
昨今流行り(と言ってもいいだろう)のナチスもののひとつだけど、歴史自体を直接描くのではなく、
その当事者の孫の世代に歴史が如何に影響を及ぼすかという切り口が新しい。
ナチズムという過去に世代を越えて向き合い、
決して忘れることなく語り継ぐ歴史観こそドイツの特筆すべき美点のひとつであろう。
残念ながら都合の悪い歴史観はなかったにして、
決して後世へと語り継ぐことをしないわが国とは大違いだ。
主人公はナチスの戦犯を祖父に持ち、家族の罪と向き合うためにホロコースト研究に
人生を捧げる男性と犠牲者となったユダヤ人の祖父を持ち、親族の無念を晴らすために
ホロコースト研究に青春を捧げる女性というスタート地点は真逆でも目的が同じという二人。
どちらも共通するのはもどかしいまで過去への執着と愚直さであり、情緒不安定さ。
ナチス孫世代のメンヘラ男女が共に旅する噛み合うはずのないドタバタコメディである。
まるでナチをネタにして身を挺したギャグを繰り返す笑えない掛け合い漫才の様な二人なのだ。
この意外な設定には参った。そして何故か愛しくて仕方がなかったのだ。
基本作品はブラックコメディタッチ。笑えないけど、笑えない故にすべり続ける二人が愛しくなる。
実は直接体験ではない何かしらの過去の事実に囚われるってそれ程珍しいことではない。
生の体験ではない故に、独り歩きする妄想が勝手に血肉化して、
時としてがんじがらめになり、前向きで進むことが困難になるくらいに身動きが取れなくなるのだ。
だからナチズムとは無関係であっても、この二人の不器用な言動を憎めないのだ。
そして年齢や価値観、性格を越えて、反発しながらも無性に惹かれてしまう不器用な男女がいるだけ。
「午後8時の訪問者」ではクールな印象だったアデル・エネルが全く異なる役柄を演じている。
際立った特徴は薄いけど、何気ない巧さと役柄に応じた印象操作がフランスで人気なのは理解できる。
アウシュビッツ会議という共通の目的のために、当時の体験者の参加を説得したり、
現地を検分したりと遁走を繰り返す珍道中が続く。
通常の作劇ならば、当初のこの一大イベントをクライマックスに用意して、
複数の登場人物を一堂に会して交錯さすぇるのが定石だろうが、
意図的に盛り上がりをはずして、あっさりとした描写にとどめるのが面白い。
主人公たちにとっては、それは最終目的ではなく、明日に向かって生きていくための過程に過ぎないのだ。
昨日咲いた花(ブルーム・オブ・イエスタデイ)を自らと周囲の明日へと繋げるための日々に過ぎないのだ。
このことを考えると作品の最後に用意されたちょっとしたオチには思わず笑みが漏れる。


偏愛度合★★★★