タイムトラベルにパラレルワールドというゴリゴリのSFガジェットを導入しながらも、
それは単なる物語のきっかけに過ぎず、全体的にご都合主義な緩さが漂う。
SFを期待すると、作品中の粗探しで、全く落ち着かないだろうけど、多分作り手の意図は別にある。
逆に非現実な設定に無意識に拒否が伴うというSF脳がインストールされていなくても大丈夫。
この緩さは基本的には、いい話としてベタに泣かせる演出へと向かう。
可憐なひとりの女性を愛するふたりの男という聖三角関係を敷く。
描かれる女性像は男性妄想的な内面描写のない画一的な元気で明るい愛いっぱいの美人像。
ツイストしてあるのが、そのふたりの男が時代を隔てた同一人物であるという点。
ひとりは未来を知らない故に未来を信じる若者、もうひとりは過去に絶望し、現実にやさぐれた中年男。
通常の時間旅行ものの場合、親殺しのパラドックス故に本人同士の接触は避けられる。
ところがふたりがこれから起こることをベラベラと話すばかりが、
協力しないながら、未来を変えようとする。もうその時点でハードなSF脳は拒否するだろう。
カンボジアの老人からもらった魔法の薬って程度で流した方が良いだろう。
更には都合よく、過去へ旅立てるのは10回限定(薬が10粒)というのだ。
割とテキトーに思いつくままにトライ・アンド・エラーで試行錯誤するのもどうしたものか。
ふたりだけど、元々ひとりなんだからそこで何をして、何を思っても所詮自己完結に過ぎない。
過去を変えることでその都度現在が改変されるのだ。
でも本人は余り気にしないし、過去の改変によって波及するであろうバタフライエフェクトは、
全く無視して、主人公たちの身の回りだけの変化しか描かない。あああああ。
結局、当然のように最愛の恋人と最愛の娘という主人公の現在を守る術を実行する。
この再会の感動を売りにしているの知れないが、流石に乗れない。

ふと蛇足のように思った。
この作品の一連のご都合主義こそ、映画製作へのメタファーなのではないだろうか?
映画は撮影で切り取った断片を編集(モンタージュ)によって組み換え、時間を操作するメディアだ。
作品が完成するまで何度でもやり直しがきく。
都合の悪い部分はカットして、撮り直せばよいのだ。
そして映画の物語は箱庭的な舞台限定なのだ。物語世界内での物語を構築すればよい。
更に複数の俳優によってひとりの人物の過去から現在へと演じ分けるのも常套手段。
物語の都合で脚本をいじり、役柄のキャラクターを変えるのもありがち。
どれも映画製作現場で当たり前のように行われている手法ばかりだ。
物語という目的のために、ありとあらゆる語り口を駆使して作品へと仕上げるのだ。
主人公が望んだ現実とはまさしくそのような手段で得られたものなのだ。
果たして監督がそのようなメタフイクションを密かに意図しているかは不明だけど、
映画って現場での試行錯誤というご都合主義によって生まれた結果的産物なのだ。


偏愛度合★★★