j着陸寸前の飛行機の正面衝突という実際に起きた空前の飛行機事故の映画化。
ただし事故そのもをは殆ど直接的に描かず、事故で妻と娘(胎内は孫を宿していた)を
一度に亡くした初老の男と悪い偶然が重なり、結界的に400名以上の乗客を業務上過失で
死に至らせた若い管制官の事故の余波(アフターマス)のみに絞った人間ドラマとなっている。
事故前後の二人の日常や心理描写が中心の極めてミニマムな作劇だ。
事故そのものはレーダー上で機影が消える瞬間のみで表現し、
その後はいきなり雪の原野に散在した破片のみという限定した形でしか表現しない。
些か不謹慎ではあるが、衝突の瞬間という映像的な見せ場を封印している。
もっとも昨今安易なCGが溢れ、観客もつくられた疑似映像であることには自覚しており、
仔細に描写しても目新しさも衝撃もないだろうが。
二人のその後の余韻のみに物語を絞り込む。
最近日本では飛行機事故の事例自体は多くはなく、それ程身近なものではないかも知れないが、
交通事故や大震災による津波や原発事故などに置き換えれば、
突然理由もなく被害者となった者と原因の一部を担った者という対峙は誰誌にもありうる事象。
テーマ自体は消え編めて普遍的なものである。
大切な身内を失った途轍もない悲しみ、それでも続く日常。
同じく自分の過失で多数の人の命を奪った罪悪感に苛まれる苦しい日々。
正反対のようで、実は同質のものだ。自ら死を覚悟するのも同じ(結局そこへは踏みこまない)。
航空会社の補償問題、業務上の状況、責任追及など事務ルーティンも多少は描かれるが、
全編を貫くのはふたりの重苦しいまでの苦悩。
眉をしかめて、焦点の合わない視線で、生と死の合間をかろうじて生きながえて彷徨う。
物語的は、彼らに安易な救済や癒しを与えることを一切しない。客観的にその姿を追うだけ。
アメリカ映画に珍しく、神の救済というありがちな定石は一切描かない。
無神論者というより、概ね現実世界では神は然程役立たず、アイコンだけの無能な存在だ。
単調に延々と続く、眉をしかめ、思いつめた暗い表情が苦痛になってくる。
シュワルツェネッガーが演じる主人公は責任追及の果て、復讐という安易な手法へ駆り立てられ、
管制官との間にボタンの掛け違いの様な悲劇が起こる。
悲劇が悲劇を生み、更に悲劇を生んでゆくという負の連鎖がある。
物語は事故発生から10年弱の時間を追うが、演出的なメリハリが弱く、
一度も晴れることない曇天と雨天を延々と見せ続けられ、やがて苦痛すら伴う映画だ。
監督の意図的であったとしても、心地よいものでない。

偏愛度合★★★