「新感染」の前日譚ということだが、製作は「ソウル・ステーション」の方が先行しており、
元々ヨン・サンホ監督は実写ではなくアニメーション作家として作品を残している。
同じ突然発生したゾンビを扱ってはいるが、二作の物語は厳密に繋がってはない。
予想通りというか、やはりゾンビの起源やパンデミックの原因そのものには触れていない。
ジョージ・A・ロメロのオリジナル以来、ゾンビは社会背景のメタファーだ。
突然既存の社会にゾンビという異物が発生し、あっという間に拡散していくという恐怖や不条理にこそ
意味があり、その明確な発生経路や原因、解決策などは二の次となる。
もちろんその過程に焦点を絞った作品もあるだろうが、
基本的にゾンビ自体は理不尽で説明できないものなのだ。
何かした異物が侵入したことで、社会が混乱崩壊する状況下、市井の人々が逃げ惑う姿を描く。
必ずゾンビが何かの隠喩となっている。
「新感染」では北から南下してくる異物は、当然朝鮮半島での対立国家の侵略を隠喩させている。
「ソウルステーション」ではそのような国際政治的なニュアンスはないが、
天変地異な災害や疫病などの災厄を隠喩として、それが都市部で突如発生した時、国民と政府
(警察や軍隊などの武力行使を含む)がどうなるのかという姿をシミュレーションしている。
だから今回の物語舞台は韓国の首都ソウル限定。
背景としては原題のソウルという社会構成や諸問題が敷かれている。
繰り返し「家」というモチーフで物語を構成する。
発端となるのは「家」を持たない地下道や道路などで寝泊まりするホームレス。
彼が最初の感染者で、接触した者へとゾンビ化を拡散させていく。
父の「家」から家出して、ソウルで風俗嬢に身を落とし、現在は男友達と安宿で同居するのがヒロイン。
男友達は無職でその「家」も家賃を滞納して、大家から何度も督促され、追い出される寸前である。
そして物語の最後に逃げ込むのが、分譲中の高級マンションのショールームという「家」である。
「家」は誰しもにとって帰るべき場所であったり、平穏にくつろぐ場所であったりするが、
それは同時に社会的な階層の証となる。
家なしから、豪華絢爛な超高級マンションまで、資本主義的な意味で持つ者と、持たざる者が生まれる。
突然社会に侵入してきた異物によって、家や資産がいとも簡単に崩壊していく様を描く。
駅舎や地下街、道路や建物などの街の風景は現実からトレースされ、リアリティラインを守っている。
人物キャラクターもアニメーションの線画として簡素化されてはいるけど、同様だ。
アメリカ映画のアニメーションでも実写に限りなく近い動きや
日本のリミテッドアニメーションでの止め絵の中間的な動画の間が抜けたような
ギクシャクしているけど現実的な動きが独特の味わいを出している。
混乱が短時間で町全体へと広がっていく中、ヒロインとその男友達の視点を中心に逃亡劇が展開。
実は父と娘という関係性も二作に共通している。
実家から娘を探しに来たという父と娘が交錯する。
「新感染」はどちらかといえば、移動する列車内という閉鎖空間でのアクション主体で残酷描写を控え、
親子や恋人、友人同士といった関係を割とベタに泣けるイイ話として落としていたが、
その点では「ソウルステーション」の方が絵面はアニメだけど、よりリアルで残酷な展開となる。
何かの変事には、いとも簡単に「家」は崩壊して、無意味と化して、人々は拠り所を失い、
本来国民を守るはずの警察や軍隊が銃を向けるかを思い知らされる。
これは国を越えて普遍性が高く、記憶に新しい阪神大震災やオーム真理教によるテロ、
東日本大震災、原発事故などにその異物を置き換えても逸話として十分に成立する。
やっぱり、ゾンビは社会背景のメタファーなのだ。

偏愛度合★★★