もはや頑固とか、一途を越えて、偏執狂なまでに、細部にこだっり、歪んだ戦争映画だ。
映画監督としては一線を越えたこの類まれな作家性こそ特異性となる。
雇われた仕事を的確にこなす職業監督のプロフェショナリズムも必要だが、
結局作家主義の名の下では我の強い変人や変態こそが、その名を刻む。
こんな歪んだ戦争映画は初めての体験だろう。
勿論これは最大限の褒め言葉であり、
こだわるべきディティールと意図的に描かずに省いた俯瞰背景が絶妙なバランス感を生んでいる。

まず特筆すべきは、クリストファー・ノーラン監督のフェチシズムともいえるフィルム撮影への偏愛。
それもIMAXカメラを使用。
彼のプロフィール写真といえば必ずIMAXカメラの台座に座る姿が思い浮かぶくらいだ。
わざわざアナログのフィルムで、しかもかさ高いIMXカメラを使用するデメリットは多く、
ポストプロダクションでの作業や上映自体がほぼデジタルに担っている昨今、
完全に時代への逆行となるが徹底して貫く頑固さだ。
更に輪をかけてはCG嫌い。
作品でもCGを使わずに、
実際の場所ダンケルク周辺で実機を飛ばし、実際の船と人海戦術でエキストラを並べ、撮影された。
目の前に実際に起きている現象をカメラで記録するという映画の原点を頑なに守る。
ちなみに監督自身も携帯電話もメールアドレスも持たない徹底した偏屈ぶりらしい。
わざわざ手間とコストを要する手法を意固地に選択する。
舞台劇の様なミニマムな背景設定の小品ならともなく、戦争という国と国の争いであり、
通常ならばどうしてもスケールが大きくなり、登場人物も視点も複数化する、ましてや実話映画化なのだ。
この二つの執着は決して賢明な選択とは思えない。
自ら掲げた初期二条件を見事にクリアして、
2時間の尺内でこれだけクオリティの高い娯楽作品として仕上げる手腕は並大抵のことはない。
ノーラン監督はずば抜けて変人で変態だけど、素晴らしい映画作家である。

●時間軸の操作
間違いなく映画は編集によって、時間を操作するメディアである。
多分それは写真や文学などのメディアの物語よりも、映画の特徴として顕著だろう。
2時間という時間で縛られた1本の映画に複数の長さの時間軸を並行させるという実験的な手法が凄い。

①ドイツ軍に包囲されたダンケルクで救助を待つ40万人の兵士の海岸での1週間
②イギリスからドーバー海峡を渡り船で救助に向かう民間人の海上での1日
③援護に向かうスピットファイア3機の空中での1時間

という現実では長さの異なる三つの時間軸をまるで共通時間軸で同時進行しているかのように交錯させる。
このアイディアには感服する。
単なるカットバックではなく、その実際の長さや場所の異なるショットを
たった今、この瞬間で進行している出来事のように巧みに繋いでいく編集が本当に見事だ。
バックにはハンス・ジマーの神経を逆撫でしながらも、煽り立てる音楽と
時計がハリを刻むカチカチカチという刻む始終音がインサートされる。
編集と相まって最初から最後まで、常に緊張感が耐えることが無い。こんな映画は初体験だ。

●不在の敵
本来包囲しているはずのドイツ軍の姿を一切描かない。
最後までほぼ敵は不在のまま、その気配のみで表現する。
銃声や爆発音、来襲して爆弾を落とし、機銃攻撃する敵機の姿はあっても、生身の兵は描かれない。
当然姿なき者には視点はなく、いったいどういった戦況なのか、ドイツ側の侵攻状況も見えない。
この極端な設定にもまた感服する。
戦争は当然ながら便宜上の敵と味方が争い、ドンパチするのが定石のはずが、その一方しか描かない。
これによって観客もまた、
戦地に取り残され、なんとか脱出を試みて、生き残りを賭けた兵士の気分と同調せざる得ない。
基本戦争映画というより、戦場映画であり、また戦場での戦いというより、撤退、敗走を描いた作品だ。
この勝利によるカタルシスを一切封印された特異性ながらも、決して娯楽性は失われていない。
いちおう見所としてはメインとなる3人のイケメンを配しているのは女性客へのサービスか?
無名だけど、今後いろいろな作品で活躍しそうな男前たち。
彼らが受難劇さながら、敗走の先々が次々と攻撃、沈没されていく様をマゾヒスティックに追う。
船内の看護婦など、多少の女性は登場するが、ものの見事に野郎ばかkり映画だ。
ノーラン監督は以前の作品でも見受けられるが、
それなりにスター女優を配しながらも、美しくエロく撮ることには淡泊で、興味が薄そうだ。
今作はそれが戦地という格好の舞台を得た究極のIt's a Man's Man's Man's Worldだ。
もう画面いっぱいにオッサンと若者ばかり。
救助に向かう民間船にマーク・ライアンス、海軍将校にケネス・ブラナーという老名優、
更には二人よりはちょっと若手だけど過酷な戦場の悲惨さを象徴するキリアン・マーフォーと
登場は少なくても素晴らしい演技陣たちを揃えている。

●ミニマムだけど圧巻の空中戦
登場するのは実際に飛行可能なスピットファイア3機とドイツの爆撃機、戦闘機数機。
CGならば、安易に物量作戦で空全面に戦闘機を散りばめ、
宙を飛び交う弾丸と爆発音と爆炎と派手な見せ場が展開できる場面だ。
ところが主に登場するのは飛行可能なスピットファイア機のみ。
予算の制約という大人の事情ではない。逆にオッサンのこだわりなのだ。
何せ、わざわざ5億円かけて飛行可能なレプリカを再現しているのだから。
時折ドイツの敵機は画面の隅に流れるが、メインはイギリスが誇る戦闘機の艶姿だ。
ミリオタ度数は低いけど、完璧なアングルで
華麗に宙を舞うがごときの動きを焼き付けた空中戦には惚れ惚れする。あれは萌えるぞ。
操縦士にはトム・ハーディ―を配しながらも、
常にマスクに隠され、「マッドマック」以上に殆ど顔を見せないまま。声と目線だけの演技という難儀さ。

●俯瞰できない歪な物語構造
ディティールを徹底してリアルに描き込みながらも、このダンケルクにおける戦況を俯瞰できない。
確信犯的な省略や全体像の描写を排しているため、当然だ。
海岸線を埋める兵士たちの人数が足らないければ、遠景はボール紙の絵を立てかけるなど、
時折荒業に及び、あるはずの飛行機群は3機のみの死闘に描くことで、脳内で全体像を補完させる。
物語に多くの空白と省略を設けることで、全体像を描かず観客自身の想像力で完成させるという手法だ。
構造自体は歪だけど、逆に制約されない自由な見立てを可能とする。
こんな奇妙な戦争映画は初めての体験であり、多くの観客は最初は戸惑うかもしれないが、
ジャンル映画でありながらも、単なるジャンルを超えた傑作として成立させている。
このずば抜けたクリストファー・ノーラン監督の作家性と変人、変態性は他の追随を許さない。

偏愛度合★★★★★