ポエムとア、ハンと繰り返される終わりなき日常が繰り返される世界を確信犯的な妄想として提示。
現実のパターソンという街も、劇中で言及されるウィリアム・カルロス・ウィリアムズの同名詩集とも
縁がなく(古今東西問わずポエムが苦手)、多分これからも縁はないだろうが、
この心地良い夢のごときパターソンという桃源郷は残るだろう。


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しかし月曜日から始まり、次の月曜日まで殆ど起承転結のない淡々とした日常描写が積み重ねる。
初期作から一貫している細部が明確でも、全体は緩やで曖昧という
意図的に俯瞰的な流れを外したオフビート感は顕著だ。
主人公であるニュージャージー州パターソンのパターソンが目覚まし時計なしで6時過ぎに目を覚ます。
きっちりと同時刻というわけではなく、6時15分が6時20分だったりと微妙には変化する。
傍らには美しい妻がが添い寝している。
質素な食事後、バス会社へと出勤する。路線バスの運転手なのだ。
「双子の夢を見たわ」という寝起きの妻の言葉から街中で双子と繰り返し出会う。
仕事を終え、定時に帰宅すると妻の手料理が待っている。
現実と比べればブラックな残業や過酷な夜勤なんかはない優雅でありえない非現実な働き方だ。
部屋の内装を変えたり、カントリー歌手のギターセットが欲しいと通販したり、
何かとお茶目な妻の言動。
作品全体が限りなく現実に近いが、ある種のファンタジーとして作風で一貫して、
美しい妻は最後まで夫を愛するお茶目な美しいのままであり、その内面は描かれない。
夕食後には犬の散歩がてらに行きつけのバーでビールをひっかける。
この言うことをきかない犬の言動が身につまされる。
夫婦と犬という3者の共同体(家族)において、群れの頂点(マスター)は奥さんであり、
パターソンは同格が、格下のお友達感覚。うちの犬もまさしくそんな感じ。
パターソンに対しては頑固なまでに我が道を行き、コマンドは殆ど機能しない。
まるで我家のコーギーのようだ。
この犬の頑な言動がちょっとした悲劇を生むことになるのだけど、それはそれで些細な日常に過ぎない。
そして一番肝心なのがポエム。
パターソンは日々の合間、仕事の合間にノートに手書きで詩を綴っている。
それが画面にアダム・ドライバーの文字でインポーズされる。
最後に登場するあ、ハンな永瀬正敏の台詞にあるように「詩は訳することができない」という通り、
いまいちこのポエムの良さは字幕レベルでは理解できない。
日常風景を主観的に淡々描写し、決して韻や対句、隠喩などテクニカルに走っているわけでもなく、
ポエマー苦手派(正確には日常ポエマー撲滅派)としてはしっくりこない。
ポエムを解せない無粋ともいえる。
でも作品自体がポエムみたいなものなのは理解できる。
平凡な街の平凡な主人公の営みも俯瞰してみれば、
映像の隙間に隠された韻があり、繰り返しがあり、
画面に登場する小道具や衣装、風景は全て何かのメタファーがあるなっているのだ。
ニュージャージー州に実在するパターソンではなく、またそこで暮らすパターソンもまた全て
監督であるジム・ジャームシュの脳内で展開される詩的な妄想なのだ。
日常がループするポエム構造なのだ。
これが何も起きないにに心地よく、快感で繰り返して体験したくなる中毒性を持つ。
桃源郷からは逃れられない。

偏愛度合★★★★