脳裏に過ったのは「20センチュリー・ウーマン」だった。
休日の映画館の3本梯子のラスト。
正直全く期待していなかっただけに、掘り出し物といってもいいだろう。
直前に観た作品の印象が全部ぶっ飛ぶくらいの傑作。
あれ、さっき何の作品を観たっけ?と記憶が消えるくらいに上書きされた。
アイスランド映画という希少感だけの辺境性やLGTBの権利主張的なメッセージ映画でもない。
確かにゲイの少年こそ登場するけど、
もっと普遍的で青臭い青春譚であり、閉鎖的な社会において疎外されるアウトサイダーの姿を
これ以上ないくらいにやさしい視点で切なくも、生々しく描き切った素晴らしい作品だ。
アイスランド版「20センチュリー・ウーマン」といっても誰にも通じないかも知れないけど、
自分の中では完全に共鳴したハーモニーのように繋がるのだ。
舞台も設定も、テーマも全然異なるけど、溢れんばかりの淡い映像美と
登場するキャラクター達の全てに愛着を覚えてしまうような丁寧な人物描写に通じるものがある。
実はどちらも監督の自伝的な記憶の再構築らしい。
氷の国アイスランドの通年でも限られた光の季節が舞台。
ラストの初冠雪でもうすぐに冬がやって来るというまでの与えられた僅かな時間が描かれる。
「ひつじ村の兄弟」「馬々と人間たち」など昨今公開が続いているが、
アイスランドというお国柄の持つ印象は強くない。
素朴な人々と羊、雄大な自然とか月並みなキーワードに過ぎない。
物語も牧羊と農作を営む、ひなびた田舎町の漁村が舞台だ。でも先入観は不要だ。
アイスランドでなくても、田舎町の持つ排他的で保守的な独特の閉塞感は予想がつくだろう。
そこではゲイであったり、男運・男癖の悪い母など、規格外の人物の生きずらさも同様だろう。
劇中ではこれらアウトサイダーへのやさしい目線が一貫している。
劇中では何度もオコゼという皆から疎まれる醜い魚に喩えらている。

「20センチュリー・ウーマン」と同様に母と息子の関係、そして共に暮らす姉妹という家族
(この場合は疑似的な家族ではなく本当の血縁同士)が縦軸となる。
そして主人公の少年と家族ぐるみでの付き合いで幼馴染の少年との友情(あるいは隠された愛情)、
想い焦がれる女友達たちが横軸となり、物語が展開される。
主人公ソールの往年のリバー・フェニックスを思わせる美少年ぶりにはその筋の人は悶絶だろう。
短髪に上目づかいの視線、無垢なまでの無自覚な行動にリバー・フェニックス記憶を探る。
彼に想い焦がれるタイプの異なる金髪でワイルドな女性の視線を集める美少年クリスティアンも同様。
映画において男優、特に美少年を愛でる習慣は希薄だけど、
このふたりの生き生きとした描写には目を奪われる。
一部巷では、どっち派という好みの選択がありそうだ。
たまたま好きになった相手が同性だったというだけで、LGTB的視点のみでとらえられない友情だ。
ゲイ映画だからという否定も、逆の肯定も、余計ない配慮は全く要らない。
母役こそ、アネット・ベニングの圧勝だけど、その他の美少女たちは決して負けていない。
性に目覚めた末っ子のソールの目の前で目の前で着替えたり、
何かと性的にからかったりする美人姉妹もいい感じ。
口の悪いパンクな姉貴とポエマーなアーティスト志望の姉貴とキャラ分けも巧み。
男兄弟の長男だったので、姉の存在には常に憧れが付きまとい、あり得なかった幻想を刺激する。
また女友達とのキスや初体験など、そんな素晴らしい青春の記憶がなくても、ときめきは止まらない。
それぞれが家庭や個人的な事情を抱えているけど、
限られた光の季節での躍動感のある日々の描写には、もう苦しくて死にそうになる。
まさしく「ときめきに死す」だ。
ときめきは人物描写だけではない。
全体的に淡いトーンと自然光を巧みに活用した広大なランドスケープがこれまた堪らない。
単に風光明媚な観光案内的な映像というより麦穂の揺れる草原や湖、断崖絶壁の海岸、
アップダウンのある丘陵風景など、このアイスランドの過酷な自然こそが心象風景となる。
更にロングショットから一転しての寄りのアップショット、逆光で金髪が透けながらの横顔接写に繋ぐ。
引きと寄りの絶妙のバランスが絶妙。あゝまたしてもときめきが止まらない。
本当にすぐれた映画って、自分とは共有記憶がないのに、まるで同じ時を過ごし、
その瞬間の同じときめきを共に感じたようなような錯覚を伴うのだ。
私的には直球ど真ん中ストライクにツボな作品で文句なしの満点★5つだ。

偏愛度合★★★★★