イタリア名物「マンマミーアmamma mia」映画だった。
流石世界屈指のマザコン国だけあって、
巨匠フェリーニを代表格に母息子ものはこの国の伝統芸でもある。
でも一見何気ない気を衒わない作品が実は一番奥が深く、読み解きにくい。
アメリカ映画の明確なまでの起承転結のプロット展開、主人公の成長、
作劇に応じた適切な演出技法の駆使、時としてはそれ以上のテクニカルな撮影や色彩などの
過剰なギミック導入と全てが合理的に計算されている作風に慣れていると、
ついついヨーロッパ映画特有の曖昧さが心地よくも、同時に分かりにくさへと繋がってくる。
文章に喩えると、小難しい哲学、宗教などの業界用語や聞き慣れない横文字、漢字なども一切使わず、
平易な口語体で語るけど、語り口と構成と主題が実は計算尽くされていて、
読み終わって知らずに隠された含蓄が溢れているという名文だろう。
一見簡素なようで、表層的な格好だけの薄っぺらいものと比べて、難易度は極めて高い。
「甘き人生」もひとりの男の回想と現在が交錯する淡々とした描写が続き、明確は起承転結はない。
ラストでの唐突ともいえる終劇の突き放したオチなきオチも混乱させる。
しばらくはこの作品がいったい何を語ろうとしていたのが理解できなかった。
何か奥底まで沁み込むには時間は必要だった。
ようやく「マンマミーア」という言葉によって、ようやく糸がほぐれた。
これは母の喪失を引きずるという変則マンマミーア映画なのだ。
息子の母への依存、逆の母の息子への依存という共生関係を単純にノーとしないお国柄がイタリアだ。
幼少期、愛する母の突然の死という欠落を体験した主人公。
喪失感は成長後も続き、欠けた部分を埋め合わせるものを探して、
色彩を欠いた白日夢か、夢遊病の様に人生の半ばまで彷徨ってきた。
主人公の母を巡る二つが対比される。過去と現在、光と影、夢と現実という具合だ。
時系列通りに進行する現代(年代が明確に表示される)にランダムに挿入される過去。
といってもジャーナリストの自伝を原作とした脚本の為、
正確にはその瞬間における現在もまた過去なのだが、一応は時間の流れに従って物語は展開。
過去は多くの記憶がそうであるようにランダムで、
印象の強いものが順序とは無関係に現在とちょっとした繋がりで再生される。
どんよりと暗めの現在進行形の映像に対して、過去の記憶はやや明るくハイキーで、セピアがかっている。
母の死後、叔父叔母に育てられ、大人になってジャーナリストとして成功しているが、
急激な時代の変化と先の見えない閉塞感で混乱する90年代を空虚に生きる。
例えばボスニア戦線での仕事(戦場写真)などは心を閉ざして、周囲へ無感情で痛々しいばかりだ。
アイデンティティの喪失の原因を探る軽いミステリー風の展開となる。
劇中神父の台詞の「もしも」は敗者の印 で「にもかかわらず」が勝者の印だとか
さらっと流れていく言葉の数々が実に奥深い。これは素晴らしい映画に共通する特徴でもある。
最後には母の死の真相を知り、喪失感を埋め合わせる女性と出逢いと一応の結末は迎える。
きっかっけとなる女医を演じるベレニス・ベジョがとっても魅力的。
しかし前述の通り、物語として救済や癒しを安易にあてがうのではなく、
オチではないオチによって観客を突き放す。
そうなのだ。
人生はこれからも何が起ころうが死が訪れるまではこれからも同じくのだ。
その継続性にこそささやかな意味があるだけだ。


偏愛度合★★★