元ネタとなる実話ロンリーハーツ・キラー事件は何故多くの監督の興味を惹きつけるのだろうか?

結婚詐欺師が鴨としてであったじょせいに惚れ込み、兄妹と称して共に独身者を騙し、大金を奪い、
都合が悪くなると殺害して、逃亡して河岸をかえるという事件。
その犠牲者は20名以上と言われているらしい。
確かにアメリカ犯罪史上の類を見ない事件かも知れない。
同時上映の最初の映画化となった「ハネムーン・キラーズ」を評した言葉が端的に表している。

ラス・メイヤー「耐えられないほど破廉恥な見世物」
フランス・トリフォ―「もっとも愛するアメリカ映画」
マグリッド・デュラス「私の知る限りもっとも美しい愛の物語」
グアスパー・ノエ「『カルネ』の元ネタとなった作品」

惹かれるものと、拒否する者が両極端に分かれている。
「すべてを受け入れ、すべてを犠牲にして突き進む愛の猛威」と称されているが、理解不可能。
人を騙したり、殺してはいけないなどという倫理観を持ち出しているわけではない。
金を得るのための方法論としての結婚詐欺、継続のための殺人という図式は理解の範疇だが、
まるで「ピックフラミンゴ」のディヴァインのような醜悪なヒロインと
口先だけの調子のいい野郎との結びつきが理解しにくいのだ。
よくある「この人は私がいなければ駄目なのよ」という一見母性的な保護心と
相反する「この人がいないと自分も生きていけない」という無意識な依存心の結びつけているのだろう。
「ハネムーン・キラーズ」は素性や個人情報におおらかだった時代を背景に
やや芝居自体は時代がかった仰々しい臭さはあるものの、モノクロームの映像と丁寧なカメラワークと
直接的な表現をできる限り避けた作品全体のトーンの抑制は全面否定できない。

個人的には未見だけど、
1996年と2006年という同素材の映画化を経て、原題を舞台にアップデートされたのが本作。
文通という手間暇のかかる牧歌的でポエムなやりとりは流石に無理があるので、
手っ取り早くネットでの出会い系サイトと設定を変更。
インターネットでのめーるやSNSでのやり取りは素早繋がりを生むが、
同時にネット自体が常に抱える悪意というものを誰もが認識している。
個人情報の安易な漏洩、虚言癖、なりすまし、意図的煽動(炎上)などが
現実に当たり前のように横たわる世界で1940年代の実話物語の再生は可能なのだろうか?
結果はもののお見事に退屈で、散漫な絵空事で始終している。
連日のように新聞三面記事やワイドショーで報じられ猟奇的な現実を越えることは出来なかった。
夫の詐欺師は似た風貌を役者を配しているが、
妻を平凡だけど、多少は見栄えのする周囲に一人ぐらいいそうな容姿へと変えている。
ただ、観客の二人への感情移入を導くものではない。

粒子の粗い、ざらついた画面に暗い色調でアップを引きを交差させる。
観客を混乱させ、不愉快ににさせるための意図的な演出だろが、編集リズムが悪く、居心地が悪い。
1時間半のという短尺なのに、ダラダラとプロットが明確に展開しないため、体感時間は恐ろしく長い。
余談だが、昔から映倫的には陰毛、性器、性行為に対しては執拗なまでにボカシをかけてきたが、
最近は残虐描写にも及ぶのね。具体的には手首をのこぎりで切断するというシーンをぼかしている。
衛星放送などでよくあるR18を避け、何とかR15+に抑えたかった意図かも知れないが、
狂乱の80年代の首切断、内臓流出といった肉体破壊を売りにしたスプラッタムービーの洗礼
をどっぷりと受けた身としては今更感いっぱいだ。
この作品を無理くりR15+におさえても、マニアの反感は買っても殆ど客は増えない気がするけど。
ヴェルツ監督の「ベルギー闇三部作」なんて知らんがなと突っ込むしかないけど、
モラルとタブー、欲望と本能という対比構造の壁を突き抜けたいのはわかるけど、
稚拙な語り口と薄っぺらいテーマにはついていけない。


編愛度合★★