物語の持つ普遍的な魅力と同様に、物語を語るという物語の構造もまた同じく大きな力を持つ。
「物語る私たち」という映画(超偏愛作品)があったが、
まさしく物語る者こそが映画自体のをつくり手であり、誰かに物語を語り聞かせるのが映画と物語だ。
幼少期両親からベッドサイドストーリーとして聞かされたおとぎ話やアラビアンナイトで有名な名作
「千夜一夜物語」を例に出すまでもなく、
誰かに別の誰かに向って話聞かせることこそが物語の基本構造なのだ。
しばしば主張している通り、映画の原点は法螺話であり、
法螺吹きにはそれを聞いてくれる観客が不可欠。両者の対話なしには物語は存在しえない。

父親は離婚し、難病に臥せる母と二人暮らしの少年。
学校でも虐められ、友人もなく孤立している。
咲への希望が見えない、行き場のない閉塞感の日々を毎夜の悪夢と共に過ごしている。
唯一絵を描くことで現実から逃れ、空想の背系へと逃避を繰り返す。
いきなりシリアスでハードワークな現実的な設定だ。
ある深夜、少年の元に巨木のような怪物が「今からお前に3つの真実の物語を話す」と現れる。
語り手の登場だ。少年と怪物が物語を巡って対話する。
しかも、続きの4つ目の物語は少年自身が話さなければならないのだ。
おとぎ話とくか、寓話というか、隠喩に満ちた物語が実写ではなく、
水彩画や切り絵ののアニメーションのような映像で挟み込まれる。
怪物は物語を語り終えると、教訓や説明なしに怪物は去っていく。それが三度繰り返される。
この物語がワクワクして、ついつい先の展開を急ぐようなエモーションには欠けるばかりか、
ある意味現実的な矛盾に満ちた後味の悪いバッドエンディングばかりなのだ。
往々にして物語はハッピーエンディングばかりではない。
怪物と語る物語が、この「怪物はささやく」という物語で何を隠喩しているのかは明らかだろう。
少年自身が抱え込む内的な葛藤の表象だ。
現実世界とリンクした運命的に抗うことが出来ない矛盾と皮肉に満ちた物語であり、
それを司る巨大な怪物こそが世界を支配す運命ともいうべき存在だ。
怪物の声を演じるリーアム・ニーソンのドスのきいた低音が素晴らしい。
拒否しならも、同時に身を任せたくなる二面性を巧みに演じる。
やがて最後には少年が現実を見つめて、勇気をふり絞り4つ目の話を語る。
彼の語る物語もまた彼自身の内面であり、物語を語り聞かせるという行為の持つ根源的な力を表す。
それは救いや癒しであったり、自らの解放であったりする。
映画における物語、映画をつくるという行為も同様なのだ。


偏愛度合★★★