前評判で「闇の奥」な西部劇と聞いて興味津々だった。
監督自身の言葉を借りれば、

  ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』的な一面がある。
  エイブラハムの狂気に飛び込むべくリオ・グランデ川上流へ向かうデヴィッドの旅は、
  “カーツを探すためのウィラードの旅”のウェスタン版だ

らしい。期待が高まる言葉だ。
先日のコロンビア映画「彷徨える河」といい、
「闇の奥」というより、それを翻案した「地獄の黙示録」直系が多い。
改めてあの作品の後世へと残した偉大さを痛感する。

舞台はメキシコとの国境、リオグランデ川上流の町マウントハーモン。
川の下流に流れ着く無数の死体。
「プリーチャー」と称される男エイブラハムによって歪んだ教義と呪術、
暴力によって町全体が支配されているらしい。
そこへ状況把握の潜入捜査官として、テキサスレンジャーのデイヴィドが調査に向かう。
言わずもがなカーツ大佐とウィラード少佐の関係性そのままだ。
案の定というかウディ・ハレルソンの禿げ頭と
モゴモゴした台詞回しを駆使したマーロン・ブランド擬装には些かヤリスギ感もある。
時代背景もまたメキシコ・テキサス独立戦争とベトナム戦争をオーバーラップさせていることは明らか。
戦時中期から末期にかけて、そこらじゅうに死と混沌が溢れ、なまぐさい狂気が蔓延る。
闇の奥の王国への向う旅が展開される。
二作品が大きく異なるのが、件の町への向かう工程が陸路だということ。
てっきりリオグランデ川を船で遡行するのかと思えばいきなりすかされる。
野を越え山を越え、主人公とメキシコ人の妻という夫婦で割とのんきに馬で旅をする。
劇中のネイティブアメリカンの老婆の台詞にかる彼岸と此岸、生と死を分けるのが川であり、
物語的にはその生と死の境界線を辿りながら、遡ることには形而上の大きな意味を持つ。
ああっさりそこは切ってしまったのが肩すかし。
現地でのカーツの王国も希釈されて、プリーチャーが操る、正統派キリスト教ではなく、
呪術を使う奇妙な宣教と洗脳には確かに狂信的(まるで新興宗教の集会のようだ)だが、
町民もやや排他的ではあるが割と普通の田舎町なのだ。
そう、全体的にどうにも薄口の「地獄の黙示録」世界なのだ。
突き抜けた狂気はなく、やがてエイブラハムの異常行動もある目的に準じたものだとわかってくる。
そのオチともいえる目的な明らかになった結末の肩すかし感には少々失望。
邦題の副題となっている「セントヘレナの掟」も何か意味ありげだけど、
お互いの左手を結び、右手のナイフで一方が死ぬまでの闘うという決闘の流儀に過ぎない。
メタファーとして忍ばせたアメリカとメキシコ人との関係、国境など今日性は含ませてはあるけど、
全体的にコケオドシな西部劇風味「地獄の黙示録」の希釈版に過ぎない。

偏愛度合★★★