これははまった。
ワンカット、ワンカットの全てが愛おしく、
物語が醸し出す時間がいつまでも終わらずに、永遠に続いて欲しいと願う。
映画を観続けていると、毎年1本か、2本かそんな作品がある。
昨年なら「キャロル」なんかがその類だ。
冷静な解釈や分析よりも、もうただひたすら好きなんだから仕方がないという感じ。参ったよ。

家族および擬似家族の世代を越えた私的でミニマルで美しい記憶の断片が横たわる。
そこには何となくジョン・アービングの風味を感じた。
彼ほどシニカルで悲劇的な側面はないが、私的で些末な出来事の描写を積み重ねながらも、
同時に時間と場所を越え、俯瞰的な物語の視点での語り口がある。
サンリンジャーからカート・ボネガット、リチャード・ブローティガン、
ジョン・アービングへと連なる個人的に偏愛するアメリカ文学の流れに近い空気感がある。
マイク・ミルズ自身の母と周囲の女性たちの記憶を再構成した自伝的なある少年のビルドゥングスロマン
のはずが、いつのまにか女性への賛歌と憧憬、不可解さへと逸脱して、
タイトル通りの20世紀に生きた女性たちの年代記(クロニクル)となっている。
普通ならば、主人公である少年の一人称的な視点での展開が定石だろう。
でも彼の記憶を通して定点観察しているはずの女性たちの視点へと突如移行し、
一人称のモノローグで未来から過去の自分を振り返るなど、
時系列通りに過去を再構築するのではなく、行ったり来たりの奇妙な浮遊感でゆらぐ視点が素晴らしい。
例え男性であっても、視点にそのまま身を任せていると、過去から未来へと揺れ動く女性となり、
監督のインタビューでの言葉では「ポリフォニック」と説明しているが、
男性でも女性でも、物語を通して多層的な人格と時間の旅を楽しむことが出来るのだ。
男性監督(脚本)だけど、フェミニズムの視点を描く。
当たり前だけど、自分はどうしても男性視点という呪縛から逃れることが出来ない。
果たしてミルズ監督の男性と女性の間を自由自在に彷徨う視点が女性から見て、
フェミニズム的にどの程度整合性があるのかが知りたいものだ。

この作品において、配役こそが根幹だ。
完璧な配置とアンサンブルとなっていると断言できる。
少年の移ろいやすい視線、アネット・ベニングのいい感じの枯れ具合と男っぷり、
堕天使エル・ファニングの怪しい輝きといい全てが文句なしなのだ。
他作ではダメ女専科のグレタ・ガーウィグのパンク女子も本当に見事なはまりっぷりだ。
何気なく耳に入ってくる台詞と音楽に秘められたメッセージは奥深く、
一度の鑑賞では情報処理できずに、何度も繰り返し観たくなるに違いない。
すぐれた物語は繰り返しての体験に堪えうる強度を持つのだ。
思わずパンフレットを買てしまったので、執筆者の私的な読み込みを比べて楽しむこともできる。

劇中でアビーがミックステープをジェイミーに手渡す。

   10代の頃に、 聞いていたら楽になれたと思う曲ばかり だから
   今、聴いてくれれば 私よりずっと幸せで目覚めた人になれるわ

実はこの台詞って奥深い。
監督のマイク・ミルズとは同い年。
でも自分が15歳の時に彼方のパンクを知らなかった。
多分デヴィッド・ボゥイもトーキングヘッズもクラッシュも聴いたのは20歳を結構過ぎてから。
同じ音楽を聴くのでも、リアルタイムと後追いというタイムラグの持つ意味合いは大きい。
音楽でも、映画でも現在進行形で進んでいる何かに
夢中になることって、その瞬間にしか味わえない特別なサムシングがあるのだ。
同い年だけど、このタイムラグ故に、とっても羨ましく、とっても悔しい。
その瞬間の何かを追いかけることって、主人公のあの年代(15歳)では大きな意味がある。
年を重ねての偉大なアーカイブたちを振り返る懐古主義もそれなりには悪くはないけど、
確かに系統的な後追いは圧倒的な生々しさには勝てない。
悲しいことに、個人的には舞台となる1979年という年を殆ど記憶してない。
中学生だったが、インベーダーゲームにウォークマン、「機動戦士ガンダム」に「ドラえもん」、
「銀河鉄道999」と並べれば何となくは思い出すけど、とりわけ印象が深い年ではない。
実際の私的な記憶に「もし」はありえないけど、
この作品の物語を通して体験できなかった記憶も生々しく感じることができるのだ。
これもまたすぐれた物語の持つ根源的なパワーのひとつだ。

偏愛度合★★★★★