河瀨直美が嫌いである。
神経をイラっとさせる容姿と類まれに悪趣味なファションセンスと
それに反した作品から言動まであからさまな「ワタシ、ワタシ、ワタシ」と自己主張の激しい
自意識の垂れ流しが、関西弁で言うところの「さぶいぼ」が出るほどに苦手なのである。
三島有紀子と荻上直子と合わせて決して映画を撮らすべきでない三大女性監督と断言しても良い。

垂れ流しされる自意識そのものを否定しているわけではない。
自意識を垂れ流すこと、すなわち生きることであり、「我思う故に我あり」の通り、自意識こそが、
その人をその人たらしめているレーゾンデートルなのだ。
巧みな表現者は、その自意識を「あれは自分のことを描いている」「ある、あるよね」と
まるで他者のことを自分自身の物語であるかのように擬装、普遍化させる手腕がある。
これこそモノをつくる人の根幹だ。
失敗すると「馬の合わんオバハンが何やまたギャーギャー言うて、御託垂れ流しとるわ~」となる。
いきなり身も蓋もないディスリスペクトで始めてしまったが、当人を憎むのはさておき、
作品に関してはちゃんと身銭を切り、観てから文句を言うべきなのが、観客の通せる唯一の筋だ。

さて本題。
結論から言えば今回に関しては肯定派。
きっと西川美和が同じ題材で、彼女の自意識で撮っていれば大絶賛しただろう。
視力を失いつつある写真家と視覚障碍者への映画の音声ガイドという仕事をリンクさせた設定が秀逸。
映画という視覚メディアで映像を失うことを映像で表現すること、
同じく映像を見ることが出来ない映画を言葉で表現して、伝えるという一見矛盾したメタな二重構造だ。
失ったものを別の何かで埋め合わせるという過程が共通している。
うざった見方をすれば、カンヌ映画祭のご贔屓監督としては、
作品を通じて映画そのものの在り方を問い、賞狙いに賭けたと言えなくもないけどね。

まずは百々新の撮影が素晴らしい。
視力を失うという過程を観客にも追体験できるようなあえて極端な手法を用いている。
被写界深度の浅い、フォーカスの当たった部分以外の背景画がボケている映像を、
あえて望遠なのに完全にフィックスせずに、不安定に動かす。
正直不安感を煽り、慣れるまでは少々酔うくらいだ。
反対にロングショットに関しては広角の左右幅を活かしたランドスケープを刻む。
またタイトル通りにちょっとあざといくらいに光(特に逆光)を使う。
その場面の背景や主人公の心情と手法を上手く同調させている。
映画の基本は光(ルミエール)であり、光を操って物語を刻むのだ。
それは巧みな撮影者によって、単なるひとコマの連なりが物語として普遍化される。

脚本という言葉を映像化するのが映画制作の基本だ。
出来上がった映画を再び言葉へと還元するという逆に遡った作業が面白い。
実際の脚本執筆の際に相当視覚障碍者への取材を重ねたのだろうか、
本来見えないものを見せるという作業の困難さがちゃんと違和感なく描かれている。
言葉→映像→言葉という一連の流れを一本の映画として見せる切り口は新鮮だ。

配した役者の見事なハマり具合も否定できない。
連投の永瀬正敏の醸す、いい感じの枯れ具合は同い年として嬉しいな。
決して過剰でない、まるで素のままのような朴訥とした演技が素晴らしい。
(これまでの経歴は知らないが)水崎綾女も同様で、
一見かみ合わせが悪い二人が徐々に近づいていく感じの相性は抜群だ。
藤竜也とカメオ出演の樹木希林はやっぱり手堅い。
当たり前だけど、作品は監督のものかも知れないが、演技は役者のものだ。
映画の出来具合は監督が称賛されても良いが、
素晴らしい演技がスクリーンで繰り広げられたらそれは役者の実力と判断すべきだろう。
撮影前から奈良に泊まり込み、主人公の境遇になりきるために合宿することは演出ではない。
ちょっと苦言を添えれば、監督の思い上がりにも程がある。

蛇足だけど、舞台を奈良に設定することは自己都合だけしか感じられない。
映画館が消え、撮影所があるわけでもない一地方都市で
視覚障碍者への音声サポート制作という仕事は到底成り立たないだろう。
自身のプロフィールに「奈良県出身・在住」と書く監督の身勝手にしか思えないぞ。


偏愛度合★★★★