現実世界の人生においては、その瞬間を境に前後で大きく人生がかわってしまう一日がある。
その多くは人の死にまつわることだ。
生きている者にとって、死は圧倒的な力を持ち、相手かまわなく容赦なくのしかかってくる。
例えば肉親、近親者や友人などの予期しない突然の死はそれ以前とそれ以降が人生の分岐となりうる。
これまで余り公に語っては来なかった極々私的な話となるが、
30年ほど前、19歳の弟を交通事故で亡くした。バイク事故だ。それは5月12日のこと。
毎年のこの時期になるとそのことについて思いを巡らす。
途轍もない悲しみ、誰か(仮想的な責任所在者)を口汚くののしりたくなる怒りや
信仰的への断絶と人生への諦観など。
兄ですらそうなのだから、実の息子を失った両親にとっての悲しみは想像を超えるものだ。
ちなみにうちも男ばかりで、真ん中の欠けた三人兄弟だった。
劇中の兄と弟という関係性も理解できる。

同様にこの映画の主題とも言うべき、ある一日を境に人生が変わった主人公には大きく共感できるし、
それを役者として、同一人物でありながら、表情や目の輝きや視線、動き、言葉使いなど、
全く印象が異なる前後を巧みに演じ分けたケイシー・アフレックの功績は大きい。
オスカー主演男優賞賞にも頷ける。
元妻役のミシェル・ウィリアムスもまた、登場シーンこそ少ないながらも、
芯からの薄幸系女優の独壇場ともいうべき元夫との再会を生々しくも、痛々しく体現する。
更にこの作品が特異で良心的なのは、安易な救いや癒しを誰にも与えないことだ。
アメリカ映画にしては珍しく宗教(キリスト教)との関わりが希薄だ。
神への祈りや告解や赦し、御言葉に天国といった、ありがちで悪く言えば他力本願な救済はない。
一度変わってしまったものは決して元には戻らない。
そして絶対にその日のことを忘れることはない。
そのうえで、一日、一日を何とか折り合いをつけ続けるしかない。
主人公を生まれ育った街を離れ、微妙な距離感を保ちながらも、
困窮しない程度に働きながらも、将来への希望も展望もなく日々を自堕落に過ごしている。
その事件で一番責任所在者に近い存在なのだから、誰かを責めることもなく、
決して自責の念は消えることが無く、死ぬまでの赦しはなく、ただ諦観の日々だけがある。
生き地獄ともいうべき現実。映画は現実を誇張することなく、容赦なく描写するだけだ。
物語は彼の視点で進められるため、段々と息苦しくなってくる。
過去と現在がランダムに交錯するだけに、天国と地獄を変わりばんこに巡るようなものだ。
最後に提示されたある選択も、目の前の現実から逃げるわけでもなく、
かといって選択によって救いが得られるわけでもない、
極めて現実的なひとつの取捨選択に過ぎないのに好感が持てる。

但し、ちょっと苦言も補足する。
これはちょっとした個人的な演出への相性の問題かもしれない。
聞き流してもらった方がいいかもしれないが、
演出というか物語の語り口自体には些か違和感を感じた。
「湯を沸かすほど熱い愛」に近い印象を持った。
どちらも主題は明確で共感でき、素晴らしい役者の演技も堪能できる、世間的な評価も高い作品だ。
でも個人的には違和感が否めない。
演出者のこれ見よがしな意識の高い感じというか、お行儀良さ、くどさに起因するのだ。
物語を大きく分ける分水嶺である、ある事故をいかに描くかという一点に尽きる。
ネタばらしとも言うべき事件を物語中盤よりちょっと後半で描く。
「アルビノーニのアダージョ」をバックで流して、一連の出来事を観客に明かす。
少々あざとい演出が否めない。
映画でしばしば挿入されるこの曲とバッハの「マルチェルロの主題による協奏曲」はある意味反則だ。
誰しも胸をかきむしられるような悲痛な美旋律に満ちているのだ。
演出がテキトーでもこの曲を流しておけば、雰囲気だけはつくろえる。
フルコーラスをバックにしながら、淡々とした描写を重ねるのだ。
映画的な外連味たっぷりの演出自体は否定しないが、
どうしても真相が明らかになった後の失速感が伴うのだ。
前半は頑なに「あれがあの事件のリーか」という風に、周囲にももったいぶった言葉を連ねていたのに、
これ以降は抑制が解かれる。ちょっと興醒すら感じた。
演技も描写もそれ以前ほどは活きてこない。
まるで種明かしを知った手品みたいなものだ。
どこで真実を明かすかという語り口の選択には疑問点を感じる。
私見だけれど、一番のラストで明らかにされるという手法もあったのかもしれない。

偏愛度合★★★