【ネタバレあります】

作家ロバート・A・ハインラインはSF(サイエンス・フィクション)の一般的な定義を

     過去や現在の現実社会や、科学的手法の性質と重要性の十分な知識に基づいた、
     可能な未来の出来事に関する現実的な推測

と述べている。
広義にSF映画といっても、
「Sci-Fi」と揶揄される低予算・低技術のパルプマガジンのようなB級作品から、
さまざまな点で現実世界と異なった世界を推測、追求するスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)
まで幅広いジャンル映画として成立している。
基本世界観を自然と許容できるかというSF脳が
標準装備していない門外漢には全く受付ない特殊なジャンルでもある。
一見「メッセージ」は如何にも「Sci-Fi 」的な安っぽいガジェットに満ちている。
世界中に同時多発的に現れた空を覆うばかりの巨大宇宙船と
ジュール・ベルヌ「宇宙戦争」以来のお馴染みのタコ型の多足軟体異生物というエイリアンだけで、
どうしても類似設定の「インデペンデンス・デイ」というゴミ映画の記憶もあり、
それだけで思わず脳が拒否する人も多いだろう。
冒頭で引用した定義は示唆的だ。
知識やテクノロジーを基にした、可能な未来への現実的予測こそがSFの主幹なのだ。
前評判が異常に高い作品だったが、予想を大きく上回るスペキュレイティブ・フィクションの傑作。
まさに定義通り、「あるテクノロジー」によって未来の出来事を推測する物語なのだ。
間違いなく本年度のベスト10に入るべき超ド級の傑作映画。
★全ては輪になっている。
リニア―な呪縛から逃れられない現実を越えて、始めも終わりもない円環状の存在に溢れている。
クラゲの様ような形状で四方目を持ち、前も後ろもない円環構造であるエイリアン。
その言語もまた始まりと終わりがない円環上の墨文字のようなものだ。
(かつて見たことがない斬新なデザインで、映画のテーマの白眉となる見事さ)
劇中に引用されるマックス・リヒターの曲もループ状の歌声らしきものが延々と繰り返される。
そもそも物語の語り口自体が、冒頭と末尾はそのまま繋がり、一本の輪となっている。
何故我々は常に時間というリニーアで、
かつ一方向性で不可逆な縛りの呪縛から逃れられられないのだろうか?
常に増大し続けるエントロピーという理論によって、
決して解放されることなく、その生から死に至るまで延々と囚われ続けている。
対して不思議なことは現実がいったん認識され、記憶という情報化された時にはその呪縛はない。
記憶はノンリニア―でランダム、シームレスに自由に飛び回る。
時系列通りの記憶再生はなく、過去を自由に動き回り、何かのきっかけで突然再生される。
もちろんそれは変質、歪曲、圧縮された記憶の残滓であり、
現実そのものではないが、記憶によって人は形作られる。
今更ではあるけど、何故減じるは一方向の呪縛にしばられているのに、
記憶は時間軸を越えた自由さを持つのだろうか?
冒頭と末尾で繋がった輪の中には、異性人の来襲と世界中同時に、
その目的と意図を探るため彼らの言語を解明するという進行形の物語がある。
主人公であるルイーズはコンタクトを繰り返し、彼らの発する文字らしき円環状の墨絵の解読を急ぐ。
そこに後半に向かうにつれ頻度を高めて、挿入される記憶の残滓ともいうべきフラッシュバック。
夢や日常の解読作業の中にも侵食してくる。
そこで描かれるのは娘との日々。誕生から突然難病を患い、若くして死んでいく様だ。
劇中では何も説明されないが、観客はこの物語以前に起こった過去の悲劇としてとらえる。
モンタージュという映画での時間操作の定石手法を何の疑いもなく受け入れる。
映画もまた編集によって、リニア―な時間軸を越えることが可能なメディアなのだ。
以下重要なネタバレにはなるが、
エイリアンのもたらそうとしているテクノロジー(思想)こそ、
時制を越え、過去現在未来を同時に俯瞰して把握できる能力なのだ。
それ故に最後に明らかにされる繰り返されるフラッシュバックこそが叙述トリックであり、
実はこれから起こるであろう未来の姿を描いたフラッシュフォーワードであることに驚愕する。
全て構造で腑に落ちる。
物語には始まりも終わりもない。未来から始まり、過去へと戻り、
現在を経て、未来へと向かう輪になっている。
独身であるはずのヒロインの娘、そのやすらかな日々、不在の夫像が全てパズル一片のように収まる。
この語り口は単なるどんでん返し一発のハッタリではなく、丁寧に作り込まれた作為はネタばれしても、
物語を繰り返して観れるだけの強度を持っている。是非再度観たい。

★全ては私的な物語だ。
原作は「あなたの人生の物語」という中国系アメリカ人の短編小説。
現時点では未読なので、映画との比較はできないが、
映画ではヒロインの娘への語りから始まるという私的な記憶の物語だ。
物語の視点となるのは始終一貫してルースであり、ある意味私小説のような一人称映画ともいえる。
設定自体はエイリアン来襲と宇宙戦争勃発かという大風呂敷をひろげているのに、
描かれる行動やそれに伴う感情な極々個人的で、ありがちな出来事ばかりだ。
そこにあるのは母と娘の関係性、夫とのすれ違い、不条理な病と若い死。
ひょっとしたら誰しにも起こりうる物語ばかりだ。抱く感情もまた誰しも想像、共感できる。
時制とは無関係にランダムに再生される記憶の断片もまた我々が日々体験していること。
マキシマムな極限状態とミニマムな日常の対比が何の違和感もなく地続きで、
ひとつの物語として全体を形成する至極な構成には参った。
余談だけど
   「夫が私の元から離れた理由がわかったわ」
   「え、君は結婚してたのか?」
というエイミー・アダムスとジェレミー・レナーのかみ合わない会話が大好きだ。
その意味は後で理解できる。

★言葉の持つ力。
解説で繰り返して述べられている
「言語によって生き方や世界観が決定づけられる」というサピア=ウォーフ仮説。
初めて聞いた理論だけれど、記憶をたどるとシンクロニシティなエピソードがある。
伊藤計劃「虐殺器官」のアニメ映画を観て、その出来具合に不満足であったわけではないが、
もし米資本でドゥニ・ヴィルヌーヴが監督すれば途轍もない傑作だったのではという妄想を抱いた。
原作は虐殺を司る言語を無意識のうちに植え付けることによって、
自然淘汰にも通じる大量虐殺が発生するという理論だがテーマだ。
まさに言語によって行動が決定づけられるのだ。
ヴィルヌーヴ監督は偶然にも同時期に同じテーマを別の作品で更に深化させ描いていたのだ。
SFというジャンル映画の先見性にも驚き、同時に言葉の持つ力の偉大さを痛感した。
主人公が戦略アナリストでも、動物学者でもなく、単なる言語学者というのが素晴らしい。
言葉を分析し、言葉を操り、言葉によって何か伝達していくという異文化の橋渡しとなる役柄だ。
言葉の持つ根源的な力を思えば、彼岸と此岸を繋げる巫女のような存在かも知れない。
エイリアンの言葉は円環状で始まりも終わりもなく、繰り返され、ぐるぐる回り続ける行のようなもの。
そこに現在過去未来といった時制はなく、非直線的(ノンリニア―)な形態を持つ。
ある言語を学び始めるとその言語で考えたり、夢を見るらしい。
エイリアンと何度も何度も言葉を交わし、単語の意味を知ることで、彼らの意識が侵食していく。
メッセージというか、思考そのものを言葉を介して感じ取っていくようになる。
でも本当に少しづつ徐々にグラデーションのように変化していくだけだ。
ただこれ見よがしな劇的な描写はせずに、観客もまたラストに至るまで
そのことすら自覚できないくらいに抑制された演出だ。
最後に至る言葉の持つ力を理解して、驚愕し、感動し、全ての流れを感じ取ることがきるのだ。

★物語は繋がっていく。
原作、演出、脚本が完璧に物語構造をつくり上げ、役者や美術、衣装、特殊効果が映像を具象化し、
無音からノイズまで緻密に計算つくされた音響効果と
ミニマムだけど密かに感情を揺さぶる音楽と全てを兼ね備えた作品だ。
余りにも情報量が多く初見だけでは、理解しきれない側面も持つ。
これが繰り返して鑑賞できるすぐれた物語特有の強度なのだ。
繰り返すが、私的偏愛度で言えば、
本年度のベスト10には必須で、何年経っても繰り返して観ることになるだろう。
すぐれた物語は物語と繋がる。
町山智浩氏は同じくSF作家カート・ヴォネガット原作の「スローターハウス5」や
「エターナル・サンシャイン」との類似性を指摘していた。記憶をたどり、作品を再見して確認したいものだ。
また「ブルー・バレンタイン」での時制をシャッフルされたカップルの始まりと終わりの物語が浮かんだ。
また宇宙船の数が世界で12船なのも意味ありげだ。
つい先日読んだ本によると、
西欧では十二という数字は天道の十二宮などであらわされるように完全数としての意味が強いらしい。
現実の情報と偶然にも、無意識に繋がっている。
そういえば星座もまた最初も終わりもなく、延々と回り続けるのだ。キリストの使徒も十二人だ。
世界の十二ヶ所に贈られたメッセージをすべて合わせることで完全数となるのだ。
作品に隠された物語の断片はいくらでも深読みできる。
「灼熱の魂」「プリズナーズ」「ボーダーライン」「複製された男」と傑作が続き、
今年になってようやく公開された旧作「静かなる叫び」といいう打率十割の天才っぷりを発揮している。
次につながる物語は「ブレードランナー2049」だ。これもまた期待するしかない。
これほど期待値が鰻上りの監督も稀有だろう。

偏愛度合★★★★★