「禁じることを禁止する」とトロピカリア時代のカエターノ・ヴェローゾは歌った。
元ネタはフランスの学生運動の写真にあった言葉らしいが、
まぁ身近な例でも「壁に落書きするな」という壁の落書きであったり、自己矛盾は時として真理を突く。
その意味では今作は

 「撮影することを撮影する」

映画である。流しのタクシーの車内に備え付けられたビデオカメラで出入りする客や風景を記録する。
恥ずかしながらジャファル・パナヒ監督は初めて。
昨年死去した師匠筋にあたるアッパス・キアロスタミと同様、素通りしたままだ。
イラン映画に偏見があったわけではないが、
何となく当時自分が求めていた刺激と異なり、観る気が起こらなかった監督だ。
世界的な作品の評価はもちろん知っている。でもこの手の映画との出逢いって縁なのだ。
たまたま縁が薄いと、中々出逢えないこともあるのだ。
それ故に事前知識がないまま劇場へ。
劇中でタクシーの客が言う。

「監督、あんた映画撮ること禁止されてなかったけ?」

その通り、現政府への反体制的な活動を理由に、20年間の映画監督禁止令を受けているようだ。
彼とこの国の背景を知らないと、
何やらけったいなタクシー運ちゃんがビデオで客を勝手に撮っているにしか見えないのだ。
でも難解なわけではなく、劇中で説明されるので、背景を知らなくても段々と状況を把握できてくる。
映画監督が映画を撮ることを禁じられたため、映画作品として演出するのではなく、
自らがハンチング帽被って、タクシーの運転手として、備え付けのカメラで事実を記録撮影するのだ。
作品として映画文法的な矛盾はない。
あり得ないインサートショットは一切なく、編集はされているけど、全て車内カメラのみで構成されている。
まさに映画を禁止されたか映画監督が自ら被写体になって撮影することを撮影する。
実際に街中を流して、手を挙げた客を乗せる。こちらではタクシーの相乗りは当たり前の様だ。
そこで客同士の会話が展開される。
ここで疑問が生まれる。
さて何処までが脚本と演出が伴う、仕込んだやらせで、何処までが事実なのか?
そこにこの作品の巧みな面白みが隠されている。
イランのタクシー営業許可うんうんは知らないが、実際に監督が運転して町を走っている。
メーターもなく、料金ももらったり、もらわなかったり、割とテキトーだ。
その反面、拾った客の会話は、死刑制度や国内で観ることが出来ない海外映画の海賊版の業者、
映画監督志望の大学生、政府から停職処分を受けた弁護士、定刻に金魚を届けないと殺される
老婆など深読みすれば、余りにも出来過ぎで隠喩な話題ばかりである。
特に小学校の課題で「上映可能な映画」を撮る姪が示唆的。
どうすれば上映可能なのかという法令を説明する。
メタフィクションとして作品を作る過程を延々と撮影して、真実と虚構の隙間にメッセージを託す。
観客が劇場で観ている編集され、日本でも配給され公開された作品。
最後にクレジットされるのはこの映画はイラン国内では上映許可は下りなかったという事実だけ。
結局作品内に潜む虚実の線引きはどうでもよく、
映画を撮ることを禁止された監督のひねり出した映画を撮る方法という構成勝ちの作品だ。

偏愛度合★★★