予想外のスリリングで奥深いドキュメンタリー。
月曜日が定休日という商売柄、同じく休館日が重なる美術館からは遠のき、
サラリーマン時代は病のように服好きだったにも関わらず、
自営となっては使い捨ての作業着となりファション関連とは全く無縁となった。
ワンシーズンで破棄するユニクロと無印で十分に満足。
そもそも、ドキュメンタリーよりも映画の物語の持つ嘘を好む。
そんな門外漢揃いの自分が最後一時も画面から目が離せずに、堪能できたのが驚き。

劇中でも繰り返し語られているようにファッションは物語であり、それは映画にも通じる。
実用というよりファンタジーとしての服を紡ぐデザイナーは映画監督にも通じるのだ。
実はウォン・カーワイ(王家衛)好きなら必見作品。
そもそも自分はクレジットに彼の名を見つけ、何となく劇場へと足を運んだのだが、
イベント当日に招待されたセレブのひとりくらいに考えていたら、
密かに「花様年華」直系の流れをくむウォン。カーワイ節だったとは驚き。
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」以来、作品が途絶えていたのは、
新作の代わりにずっとこのプロジェクトに関わっていたのね。
ファンならある意味で彼の(映画ではないが)新作と言ってもいいくらいの深い関わりだ。
劇中でデザイナーたちが如何に「花様年華」を愛し、作品を何度も繰り返して観、
そのチャイナドレスからインスピレーションを受けたかを熱く語る。
実際に中国へ行かなくても創造の女神となる。
「ムーンライト」の30代アフリカ系アメリカ人がこの映画を愛するのが、
アジア人からは想定外の突然変異のようにかんじていた感じていたが、
それは映画オタクの偏愛ではなく、世界中のクリエイターを魅せる奇跡的な代物だったのだ。
今回のメットガラのテーマは「鏡の中の中国」。
とまあ偉そうに書いているが、そもそもメットガラという定例のイベント自体も
この映画の冒頭の説明でその歴史や目的を初めて知った素人だけど。
展覧会の中国と西欧の橋渡し役をウォン・カーワイが担う。
多少は英会話にも慣れたのかも知れないが、
概ね寡黙で無表情でいつも視線の読み取れないサングラス姿というお馴染みの彼がいた。
でも時折キュレーターなど企画スタッフへ言葉を投げかける。

「多くを語り過ぎるのは、何も語らないのと同じだ」
「発展途中の中国にとって過去を振り返るのは単なるノスタルジーではない」

などなど、何気に言うことがいちいち的を射ている。
本展覧会のテーマは現在の実際の中国ではなく、
ファションという物語を通したファンタジーとしての中国なのだ。
対して「ヴォーグ」誌の魔女アナ・ウィンターのビジュアルアドバイザーとしてはバズ・ラーマンがいる。
この対称性が面白い。
片やアメリカ的な外連味に満ちた、時としてトーマッチに過剰すぎる監督であり、
片やアジア的な引き算の美学を貫く、多くを語らない寡黙な監督だ。
でもこの両者が脇を抱えているからこそ、
西欧と中国の橋渡しとなり展覧会は絶妙なバランスを保てたのだろう。

ドキュメンタリーとして特異なのは、結果からその過程を振り返り、
記録として残された写真や映像などのアーカイブとインタビューを編集して
結果論的に事象を再構成するのではなく、(勿論映画発表が前提だろうが)
密着取材が許可されて、ほぼ進行形で時系列通りに過程を丁寧に追う。
冒頭で当日のセレブ登場の風景の一端がフラッシュフォーワードで提示されるが、
その後は企画初期段階に戻り、MOMAキュレーターであるアンドリュー・ボルトンの視点で追う。
彼はイギリス人でティーンの頃パンク・ニューウェーヴ(ニューロマンティック)の洗礼を受けた。
ズボン短いタケ、黒縁眼鏡といい、通じるものを感じ、同性ながら、
洒落た着こなしと物腰は柔らかだけど、芯の通った行動とビジョンには惚れ惚れする。
ドキュメンタリーではあるが、この映画という物語の本当の語り部であり、引導者でもある。
現存の中国政府とその周辺に溢れるマネーへのPCに深読みした配慮で混乱する。
ギャラ交渉や開場当日を控えても機材の遅れなど、ギリギリまでスリリングに展開される。
まるで行き先が見えない道を共に歩むようであり、下手なサスペンス映画よりも緊張感があるぞ。
そして頭尾が同じ、セレブ大集合の開幕パーティとレッドカーペットとなる。
溜息のでるような錚々たる顔ぶれが並ぶ。
あゝできることなら名前をスーパーインポーズで補足して欲しかった。
これだけの内容なのに91分という最適な尺なり。
お見事!!

偏愛度合★★★★★