人は物語に出逢う。
力のある物語は人との出逢いによって再編され、文字から映像などメディアや形状を変え、
物語自体を拡張させ、やがて時代を超える存在となる。
問題となるのは何処で物語と出逢うかということだ。
チャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」を例にとると、
この映画との出逢いが最初だった。


心の底から魅せられ、逆に戻って原作を手に取った。
正直なところ、文学史における偉大さは理解できても、こちらには然程惹かれなかった。
映像が先行したため、単なる古臭い古典でしかなかった。
自分にとって「攻殻機動隊」の場合、押井守版が出逢いだった。
同様に原作コミックに戻っても、絵柄が馴染まずに映画ほどにはしっくりこなかった。
「あれは俺のというより、士郎さんの作品だからね」と押井監督自身がインタビューで
答えているくらいだから、何処かで原作に出逢い、
それを取り込み自らの血肉と化し、作品として再構築したのだろう。
その後の何度となくクリエイターを変え、再起動されて、拡張してきたシリーズだが、
原点にして基準となるのが最初の劇場版なのだ。
それ故に新しい作品と出逢っても常に比較は避けられない。
今回の監督、脚本家を含め、世界のクリエイターたちが何処かでこの物語と出逢ったのだろう。
ウォシャウスキー兄弟(姉妹)もまた同様だろうが、
誰が見てもあからさまな影響下ながら、全くの別の物語「マトリックス」として再構築した。
でも今作の場合は、そのまま実写映画という直球勝負だ。
世界中に根強い支持層がいるだけに、ある意味分の悪い勝負だろう。
その結果同名のオリジナルとそのシリーズへの深い愛情が十分に感じられる。
でも一方的にディスって、ボロクソにけなしきれない難儀な代物なのだ。
オリジナルとは桁違いの金と手間暇をかけて、実写化しているが、所詮は模造品の域に留まっている。
なまじオタク監督だけに愛情をたっぷりと注ぎ込み、実写映像による緻密だけど、
些か表層的な映像再現と自分の好きな断片のツギハギ感の居心地が悪い。
「あ、このシーンの元ネタはアレなのね」と感じる程度にはシリーズにどっぷりなので、より所在がない。
そのままでなければならないというオリジナルの物語原理主義ではないが、
中途半端な流用や改変の自由度は時として凶とでる。
もっとも再映画化にあたりオリジナルの改変という自由裁量を捨て、
撮影やカット割りすらそのまま流用した「椿三十郎」というある意味実験的な極端な例もあるが。
そもそも自分が押井版「攻殻機動隊」2作の何処に惹かれたのによる部分が大きい。
本物と偽物、精神と肉体の対比構造に潜む宗教や実存的な哲学、認識論などの衒学的な主題を
原作から引き継ぎながらも、原作に付帯する再構築する物語に不要なキャラクターやキャラクター特性、
コメディエンスな間合いや余白などを徹底してそぎ落とし、
アニメ―ション(動画)としてのリアルな表現へと再構築した改変具合が快感だった。
前作「パトレイバー」から、その後も引き継がれる、押井作品としての根幹がツボなのだ。
再構築の更なる再構築には、当然ながらハリウッド的な解釈と物語構造が加わる。
SFXを駆使した緻密な映像再現とは裏腹の哲学性のそぎ落とし、すなわち物語の簡素化、
更には敵対勢力と公安9課の勧善懲悪的な明確な対立構造と起承転結の導入は改悪とできる。
最後に明らかになる改変されたオリジナルのラスボス的な存在には思わず脱力する。
スカーレット・ヨハンソンが演じる少佐(草薙素子)はそれなりに気張っていたが、
それ以外のキャラクター描写が薄すぎる。
特にバトーと素子の関係性。
押井版「パトレイバー」における後藤と南雲という両隊長の男女の関係性にも通じる、
強い女と脇で見守る不器用な男というモチーフが一切ない。
例えばコンクリートの川でのバトルは細部まで再現していても、
その後にバトーが素子に上着をかけるシーンはなかったり、
ボートでのダイブシーンでのふたりのさりげない会話など、どちらも男女の関係性を示す、
間接的だけど重要な要素がバッサリ切られている。
また唐突にサイトーが出てきて狙撃しても「え???」という感じだ。
結局、押井版が好き過ぎる故に、何をしても粗探しとなり、単なる文句言いとなってしまうのだ。
文句を言いながらも、同時に同じものを愛する同輩への賛同もある。

偏愛度合★★★