20年ぶりの続編は意図せずして、時間の流れとその変化に関する考察となった。
リチャード・リンクレイターが「ビフォー」シリーズ三部作や「6才のボクが、大人になるまで。」
で繰り返しているのと同様に、現実世界の時間の流れを物語内にそのまま持ち込む手法だ。
区切りの良い20年後を狙っていたというより、
続編企画が監督、脚本、キャストの偶然の邂逅によって、このタイミングで生まれた産物だろう。
20年の時間が経過しているという当たり前の事実が大きくのしかかる。
観客の前作「トレインスポッティング」の体験によって印象が大きく異なる作品だ。
前作を未体験、あるいはDVDなどで後日体験した人と劇場リアルタイム世代には大きな溝がある。
前者にとっては、時間経過によって老けたオッサンたちが再び足掻いている無様な物語に
しか映らないかもしれないが、後者にとってはそれはもっと大きな意味を持つ。
自分は20年前にリアルタイムで体験した口である。
生涯偏愛級の作品というわけではないが、20年間の間に何度となく観直している。
時間の流れは残酷だ。
例えば当時20歳の若者であったとしても、現在は40歳になっているのだ。
特に男子でも、男性でも呼称はどちらでもいいが「男」という生き物が、
生涯逃れられい変わらないバカさ加減をありありと見せつけてくれた。これは相当痛い。
主人たちを笑っていられない。
まずは目に見える肉体変化だ。
頭髪が薄くなり、白髪が増え、下腹を中心として体型がゆるむ。確実にオッサン化している。
次は目に見える変化とは裏腹に全く変わらないいい年こいても、子供じみたバカさ加減。
相も変わらず居場所を見つかられずにフラフラと自意識の中を徘徊して、
社会的には明らかに負け組となっている。
これを同じ役者が同じ役柄を20年後に演じているのだ。
どちらも男性観客には全く笑えない、鏡像となるのだ。あゝこれは痛すぎるよ。
ちなみに自分は当時31歳で現在51歳。大体主人公たちとも世代が被る。
正直言って映画としての物語なんかはどうでもよい。
物語としてのファンタジーよりも、リアリティが先立ってしまうのだ。
女性の現実的で地に足の着いた大人っぷりとは対照的なのだ。
例えば前作で個人的にはお気に入りのショートカットの女学生ダイアンは
現在弁護士として成功を収めているなど、女性主人公の徹底してリアリストぶりには唸る。
だから時間の流れとその変化への男女間の対応能力に関する考察なのだ。
これは男性と女性の間に流れる決して埋まらぬ差異でもある。
開き直って言えば、男は死ぬまでガキのままなのだ。反論したくても、認めざる得ない。
痛いところをどこまでも突いてくる作品だ。
つきましては、どうかこ痛さが自分だけではないことを祈るばかり。

偏愛度合★★★