物語はいちおう【グランドホテル方式】に則ている。
Wikipediaによると……
映画や小説、演劇、などにおける表現技法のことで、ホテルのような一つの大きな場所に
様々な人間模様を持った人々が集まって、そこから物語が展開する」という方式のこと。
群集劇、群像劇、アンサンブルプレイとも呼ばれる。
ということ。
ホテル内という限定された空間で、限られた人物たちの行動や会話がカットバックされる。
映画ではあるが、まるで舞台芝居のようでもある。
まるで舞台の書き割りセットのようにサラエヴォの街並みの背景に写り込むことはあっても、
屋上と地下を含むホテル施設内で物語は始終する。
サラエヴォの街並や市井の人々の姿、ホテルの外観すら描かない。
時は第一次世界大戦のきっかけとなったオーストラリア=ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻が
サラエヴォの訪問時に暗殺された事件から100年目の2014年。
侵略、占領、統治、民族間の軋轢、内戦と変化が著しく門外漢には到底把握できる歴史ではない。
ダニス・タノヴィッチ監督は「ノー・マンズ・ランド」で直接戦場を描いたが、
今回はホテルという現実的で身近にある舞台での諍いを描こうとしたのだろう。
屋上、VIPOルーム、ロビー、リネン室・キッチン、地下クラブと限定的な設定だ。
手持ちの移動カメラを中止に人物の行動と会話を追う。
支配人、受付、リネン室や調理関係などの従業員、記念式典を中継しようとするジャーナリストたち、
フランスからのVIPOらしき政治家、インタビュー対象となる学者と暗殺者と同姓同名の男と
登場人物はそれほど多くはなくとも、個々には思惑や意見の違い、そこに起きる些細な諍いがある。
常に歴史というものは勝者が語る主観的に編集された事実群に過ぎない。
1912年の事件もまた実行犯がテロリストだったのか、英雄であったのか立場によって異なる。
現在のホテル内で起こっている関係性も同様だ。
深読みすれば、現在のヨーロッパ、あるいは世界中で抱える病巣の隠喩のようでもある。
仰々しく盛り立てる劇音楽もなく、ホテル内に流れるムード音楽(これがうら寂しい感じを残す)が
能天気に静かに流れる中、人物を行動ベースで交錯させる。
劇中の時間進行も作品自体の時間と大体同期し、現在進行形で回想シーンなどは挟まれない。
それぞれが抱える人生の背景や内面描写は台詞の一片のみからは一部想像できるが、
具体的に内面描写としては一切踏み込まない。
まるでカットバック編集の巧みなドキュメンタリータッチのようだ。
まるで嵐の前の心穏やかでない、ザワザワとした感じの緊張感が続く上手い演出だ。
邦題通りのある「銃弾」が物語の終焉のを告げる。
こじれた関係性の解決にも、逆に革命への第一歩や新たな歴史の変動の予兆でもなければ、
単なる一発の銃弾とそのなしくずしの死があるだけだ。
偏愛度合★★★