二重の意味においてエゴについての映画である。

ひとつは在職中、志し半ばで暗殺された若き大統領のファーストレディとして、
夫の功績を自分の意図する形で歴史へと刻もうとする女性のエゴ。
もうひとつはその役を演じて、実在の人物になり切り、称賛を得ようと足掻く女優のエゴ。
実在する女性と女優の類まれなる自己顕示欲というか、名誉欲、肯定欲求が露呈してくる。
画面を見ていると、ジャッキー・ケネディとナタリー・ポートマンが重なってきて、単なる伝記映画の
劇中の人物なのか、それを演じている女優そものなのかが段々と曖昧になってくる。
演出で繰り返される鏡像(鏡を覗き込むなど)というモチーフはまさにそれを体現している。
実像と鏡の中に存在する虚像という二面性がそれを象徴している。
ナタリー・ポートマンは相当のリサーチを重ねて、メイクや衣装の再現の手を借りながらも、
表情、仕草、声色などを完全に演技としてコピーしていることはうかがえる。
現役ジャッキーの記憶は生前なので明確ではないが,冒頭から「似ている」という感じは伝わってくる。
でも正直言って非常に居心地の悪い映画だ。
それはこの全編に溢れんばかりのエゴ故だ。
脚本が何処までが史実に忠実なのかは不明だけれども、
ジャッキーの過剰なまでのエゴと顕示欲は周囲を混乱させる行動に現れている
身も蓋もない言い方をすれば、
明かにナタリー・ポートマンはアカデミー賞主演女優賞を始めとする賞狙いを図っているだろう。
ひたすら彼女の自分語り全開だ。
プロットの基本は、彼女が誰かに向い、自分を語るという構造だ。
相手は新聞記者であり、周囲の補佐官であったり、彼女の言葉で語ることがベースとなり、
そこに映画的に再現された映像が挟み込まれる。
アーカイブでは決して体験できない暗殺直後のアングルやショットもあり、語り口としては退屈ではない。
しかし肝心の歴史上最も慕われたはずのアメリカ大統領であるJ・F・ケネディ自身の影の薄さ。
暗殺後、傍らに付き添う弟ロバート・ケネディの方が出番が多いくらいだ。
暗殺前の功績やスキャンダルなどには一切触れない、ほぼ彼女の独壇場の展開である。
米映画業界では子役出身は、
アルコールや薬物、異性関係などに漏れて、大人への成長までに身を持ち崩すことが多い。
その点では徹底した自己管理で作品選択、一流大学卒業、伴侶選択、出産、オスカー受賞と
隙のない順調な人生を送ってきているようには伺える。
それでも更なる賞という称賛を求めるのだろうか?
何とも意識が高いというか、強欲なまでのセルフプロデュースには、感服すると同時にドン引きする。
彼女は絶え間ない習練と努力によってテクニカルな手法で役柄になり切るタイプなのだろう。
でもふとした瞬間、一生懸命に演技をしているナタリーにしか見えなくなる時がある。
演技という行為自体が悟られてしまうのだ。
だから観客が作品を絵空事ではなく、自分の現実の一部としてとし没入することが出来ないのだ。
これは私的な印象だけど、技術うんぬんよりも、素のままでその年頃の放つ瞬間の息吹を
偶然にも記録できた「レオン」マチルダの蠱惑的な妖艶さにはかなわないという皮肉。
あれが彼女のキャリア中の最高位ともいえる。

「ブラックスワン」でオスカーをもたらしたダーレン・アロノフスキーは製作に回り、
チリ出身で「NO」の監督であるパブト・ララインを抜擢。
また巷では評価の高い音楽にはイギリスの女性作曲家ミカレヴィを起用。
主演はイスラエル女優とアメリカ、チリ、フランス合作の多国籍映画なのだ。
外の人脈を集めてアメリカを代表するの偉人を描くというのも面白い。
ちなみにサントラは劇伴としては確かに効果的だけど、
バーナード・ハーマンのようにヒステリックに感情を逆なでする一面があり、
個人的には単独では聴こうとは思わない居心地の悪いタイプの現代音楽だけど。

そして結論的には、人のエゴが常時垂れ流しされる様はどうにも好きになれない。

偏愛度合★★★