何故21世紀の現代にヒッピー話なのか?
森の中でコニューンで自給自足する素朴なヒッピー親子vs都会の消費社会に毒された俗人たち、
原始共産主義共的同体と資本主義的消費社会という対立する図式化はされているものの、
焦点となる視点がはっきりしない。
ヒッピー親子に肩入れして、現代アメリカ社会の抱える病巣を浮かび上がらせたいのか、
それとも60年代ならいざ知らず、時代錯誤なコミューン生活家族のギャップを茶化して笑いの
ネタにしたいのかが、いまいちつかみどころがない。
まあ多分、監督は単純な合否、善悪的に対比された明確な主張ではなく、
様々な生き方多様性を描きたいのだろうがけど。
ただ断言できるのは、現実に存在すれば児童虐待と特定の思想洗脳教育で訴えられても
全然おかしくない変人親父もヴォゴ・モーテンセンが演じると不思議とチャーミングで、
妻と子供たちへの際限なき愛情を感じさせるのだから困ったものだ。
現実的には児童虐待すれすれなのに、それくらいに魅力的な父親と子供たちなのだ。
6人の子供たちも皆魅力的で、キャラクターの描き分けもしっかりなされている。
アスリート並みの運動能力、体力と読書から学んだ広範囲にわたる知識を有した兄弟姉妹だ。
ある日、森の中の生活が崩れる。
突然の入院中の母の自死とその弔い(キリスト教的な葬式ではなく、火葬、散骨という遺言)
に向けて、森から、外の世界へを一家揃って旅立つのだ。
ここで明らかになる一家と現実世界とのギャップが中盤のエピソードとなる。
ノーム・チョムスキーを知っていても、コーラやホットドッグは知らない。
旅の末に、母の亡骸に再会するが、葬儀を巡る義父母との諍いや挫折、
その後の顛末を経て、物語上の前提となる対立構造は落としどころを見つける。
物語としては現実的なオチではあるが、何となく物足りない気もする。
ふと思ったのが無理矢理2時間尺の映画にまとめて、起承転結をつけるようりも、
子供たちのひとりひとりにフォーカスをあてたエピソードや入院中の妻と夫の過去の回想などを
組み合わせて、連続ドラマ形式でシリーズ化すればいいのでは?
余りにもキャラ立ちしすぎな一家を強引に脚本上の起承転結にはめ込むと、もったいない気がする。
もっと破天荒なこの一家の話を堪能したい気もするのだ。

家族全員で食事後に各々が楽器を手に取り奏でるセッションや、
グレン・グールドのゴールドベルグ(変人親父にぴったりな変人ピアニスト)にバッハ無伴奏チェロ組曲、
更には母の火葬で一家で合唱するガンズの”Sette Child O'Mine”など音楽の引用は素晴らしい。

偏愛度合★★★