果たしてこの映画のどうしようもないダメ男ヴァンサン・カッセルは赦されるのだろうか?

「ダメ男もの」という言うべき映画ジャンルがある。
世には様々なる理由で、例えば「呑む打つ買う」でお馴染みの飲酒(煙草、ドラッグなども含む)」に
賭け事、女性関係(浮気)など、他にも暴力、不労、借金など数多のダメ男がいる。
その男たちをある時はやさしく見守り、ある時は冷たく突き放した描写で描くのがダメ男ものだ。
概して同性(男)はダメ男にやさしく、異性(女)は手厳しい傾向がある。
例えば師弟関係の監督でも是枝裕和の描くダメ男(例えば阿部寛など)へのやさしさと
西川美和(例えばオダギリ・ジョー、本木雅弘など)への冷たさは対照的だ。
時として「やれやれ」と「死ね」というくらい対照的な扱いを受けることがある。
余談にはなるが、オダギリ・ジョーなんてどの作品でも常に情けないけど憎めないだけ男の役ばかりだ。
男が概してダメ男にやさしい理由は何となくわかる。
全ての男はダメ男になりうる潜在的な候補生なのだ。自分のその例外ではない。
酒煙草博打女遊びには全く縁がなくても、
人生のいたるところに罠が仕掛けられており、いつどこかで陥る可能性は否定できない。
心の奥底で完全否定できないため、例外はあるが、大概のダメな男には甘くなる。
ダメ男は周囲の他者との関係性の中で成立する。
いわば宿主を必要としうる寄生生物みたいなものだ。
無人島で一人スタンドアローンにダメであり続けるダメ男は存在しない。
他者の多くは女性、妻であったり恋人であったりする。あるいは親子も多い。

今回は女性監督。
しかも自伝的な側面が濃厚だ。
監督のマイウェンは十代で女優としてリュック・ベッソン監督と出逢い結婚、一児もうけるが、
その後彼は他の女優へと走り、4年で離婚という経歴をも持つ女性。ひどい話だ。
主役に抜擢されたのがモニカ・ベルッチの元夫で公私ともわず全身全霊なダメ男だけど、
同時にイイ男でもあるヴァンサン・カッセルなのだ。
また同じくヒロインのエマニュエル・ベルコもまた女優でありながら監督、脚本も手掛ける。
二重に自己投影的な配役に心躍る。
ここぞとばかりにベッソンとの忌まわしい記憶を、自分と似た女優の視線で徹底的に糾弾し、
否定するのかと思えば、作品全体では意外や意外にフラットで、客観的な描写に徹して、
所々に彼へのやさしい眼差しすら感じられる。
個人的に大好きな言葉である「詮無い」感が自然と滲み出ているのだ。
ヴァンアサン・カッセル演じる男は惚れっぽく、女癖が悪く、見栄っ張りで虚言癖の傾向が強く、
仕事も飽きっぽく、中途半端で常に借金まみれで甲斐性がないい男だ。
でも同時に息子を溺愛して、離婚後も元妻への執着を隠さない。
矛盾だらけで、どうしようもない男だけど、確かに同性異性問わず憎みきれない男でもある。
でも同時に女性監督だけあって、
リアリスティックで強かで地に足が着いた女性の生き様を物語の主軸にしかりと残す。
当然ややこしい相手に振り回され、苦しむ。
出会いから数年以上にわたる人生模様を断片を並べて、俯瞰的に描く。
ミア・ハンセン=ラブ「未来よ こんにちは」と同様に”C'est la  vie”な感じが貫かれる。
物語のラスト、結論(オチ)を明確にせず、
カットアウトの様にブツと切れるラストシーンと言い、フランス映画の伝統芸なのだろう。

補足にはなるが、友人とダメ男談義していたら、ファムファタール説が上がった。
近寄れば人生を狂わされる美しき宿命の女(ファムファタール)とダメ男は似た者同士かも。
ただ美しくなければファムファタールにはなれないのと同様にイイ男で、
かつダメ男でなければならないのだ。
この必須条件が加わって初めて、女性はダメ男に甘くなるのだ。
人としてはダメダメだけど、美しい生物としては赦せるということなのか。面白い仮説だ。

やはりヴァンサン・カッセルだから赦される様だ。



偏愛度合★★★