シリーズを劇場公開リアルタイム鑑賞した世代である。
20代末に「恋人までの距離」を観て以来、主人公と同じだけ年を重ねてきた。
役者二人の実年齢よりは少し上。
思い入れが一番強いのはやはり第一作。
いつまにか「ビフォア・サンライズ」と原題なっているが、
イーサン・ホークの視点で旅先(ウイーンへ行きたくなる)での出逢いにときめいたものだ。
数年後に公開された続編「ビフォア・サンセット」も自らの記憶の残滓を
共に探しだすように劇場へ駆けつけた。
第一作は監督他の脚本を二人が演じていただけだったのが、
第二作以降は三人の脚本による共作となった。

さて前二作を再鑑賞していないので記憶は曖昧だが、何か作風変わってない?
ジュリー・デルピーの自作自演シリーズ「パリ(ニューヨーク)、恋人たちの2日間」
とキャラが混じっている。こんな下ネタばかり飛び交ってっけ?

三人共同執筆なので、男と女の視点立場の違いがリアルに対比されているのだろうが、
(自分が男性だからかも知れないが)ある種自虐的なまでに強烈にデルピーの
男性観、人生観などが前面化していて痛い。
彼女の役柄が痛いというより、男性の痛いところを見事に突いているのだ。
男性=理論的、女性=感情的といった類型化や男性の子供っぽさを皮肉る。
脚本はデルピー視点のカラーが強い気がする。

主人公二人の諍いは夫婦なら、恋人同士なら一度や二度じゃ済まない日常の
ありふれた口論であり、観ていて自分の体験や記憶と重なりやたらと生々しい。
まぁ喧嘩は現実で十分にお腹いっぱいなのに、
何で映画でまで夫婦の諍いを体験しなければならないのか、という声もあるが。

イーサン・ホークも老けたな。勿論デルピーも同様。
観客席の自分もオッサンと化しているので偉そうには言えないが。

「汚れた血」のバイクで駆ける天使にような姿。
もっとも監督と同様、その時は彼女よりももう一人の女優に夢中になっていたけど。
印象に残っているのは、
その後の頭打ってあっけなく死ぬ「ボイジャー」とか白い「トリコロール」かな。

しかし本作でも強烈なのはジュリー・デルピーの体を張った演技だ。
男性のおっぱい好きを揶揄したいのか、
ベッドインして、背中の紋見せる遠山の金さんのようにもろ肌を脱ぐ。
当然フランス人なのでノーブラ。
でも行為は携帯の着信で中断され、やがて言葉の諍いへと繋がる。
その間何故か胸を露出したまま、会話に合わせて胸部がプルプルと動くのだ。
「男たちよ、勃て!」と煽りたいのか、「男たちよ、萎えろ!」と陥れたいのか
映画史上空前にシュールなおっぱい露出だ。

数年後にまた同じ三人が集うのかも知れない。
こうなれば最後まで付き合うつもりだが、
次作は老いや病気や不調自慢、死といったテーマになりそうで今からうんざりするけど。

偏愛度数★★★