何を見ても何かを思い出す。
ヘミングウェイの短編でありましたね
それとは全然関係ない話です。
とりとめのない事をダラダラと
脈絡なく書き綴ります。
無理に読まないでいいです。
街を歩いてる時でも、何かを見つけては
それについてしょうもない想像したり
考えを巡らせる癖がある。
(ぼんやりすることも好きだけど)
大森駅付近を歩いていて、ビルの解体現場を通りかかった。
すでに建物は解体されてきれいに更地になっていた。
隣の雑居ビルの壁。長いこと日が当たらず
ビルとビルの狭い隙間だった場所が
むき出しになっている。
こういうところを歩きながら眺めて、
通り過ぎた後で、見た風景を反芻しながら
あの窓の中でのビルの一室の暮らしや
隣にビルが建ってた時の窓の薄暗い様子を
想像して「こんな感じだったのかな」とか。
この鉄枠の装飾も(当時としては)モダンだったんだろう
割れた窓ガラスが退廃的な雰囲気でいい感じだ
周囲の鼠色のすすけた壁とよく似あう。
赤瀬川原平が提唱するところの
トマソン(超芸術トマソン)の類を
鑑賞したいわけではない
トマソンはそれはそれで大好きだけど、
こういう街歩きの際に
何気なく見かけた風景を
自分勝手に妄想する癖があるってだけ。
上から2番目の窓は和室かな、とか
屋上に増築されたプレハブがあるから
倉庫に使ってるのかな、とか。
壁のモルタルの劣化具合や
最上階から一直線に降りてくる雨どいの
塩ビパイプとか。雑多に配線されたケーブルとか。
ちょっと廃墟マニアに通じるモノがあるかもしれない
こんな事ばかり考えてるから、
こんな思考回路の使い方してるから
メンタルを病んだのか、それとも
メンタルを病んだからこういう些末な事象を
クローズアップして考えたりするのか、
どっちかはわからない。
ニコルソン・ベイカーというアメリカの作家の
「中二階」という小説がある。
書評では
超スローモーション小説とか極小文学とか言われてる。
あるサラリーマンの男が、昼休みに
中二階にあるオフィスに戻る際に乗った
エスカレーターの、乗って降りるまでの十数秒間の間に
頭に浮かんだ膨大な物事で
一冊成り立っているという、ミクロな小説。
何か一つのエピソードのたびに
長ったらしい注釈がついてて
人を選ぶ作風だとは思うけど
日常の些末なことを過剰にクローズアップして
あれこれ感想や考察を続けるのは、
そしてそれを追体験するように読むのは楽しい。
書いてる最中思い出した。
作家のダグラス・クープラントの
「ジェネレーションX」も、内容や作風は全く違うが
やたらと挿画や注釈めいたイラストが載ってたな
この作品のこと話すと、いつも
この小説の中に出てくるエピソードのひとつ
「雷に打たれたいと望んで、砂漠を車でさまよう男」
というくだりを思い出し、同時にセットで
Galaxie 500というバンドの
「Blue Thunder 」という曲を思い出す。
作者のダグラス・クープラントはこの曲を聞きながら、
あるいはこの曲から着想を得て上記のエピソードを
作品に入れたんじゃないかってぐらい雰囲気が
不思議に似てる。
何を見ても何かを思い出す、いつもそんな精神状態ではない。
いつもそんなんだと疲れてしまう。
でも何を見ても何かを思い出すには、
その「なにか」を想像するための知識がいる。
上図の雑居ビルの画像にしても、
興味がない人が見たら「だから、なに?何これ」
と一瞥するだけだろうし
設備屋や建築士や電気工事関係の人が見たら
それなりに着目するところがあるだろう。
先に述べたトマソンの赤瀬川原平とか
南伸坊とか妹尾河童とか、
そういう人たちの目線は羨ましいと思うし
実際人生退屈しないんだろうなと思う。
バートラント・ラッセルの幸福論の中にこんな一節がある
長くなるが転載します。
「幸福論」第11章 より抜粋
'熱意'の形は無数にある。
覚えておられる人もいるだろうが、シャーロック・ホームズは
通りに落ちている帽子を偶然見つけ拾いあげた。
しばらくの間その帽子を眺めた後ホームズは,
その帽子の持ち主は酒のために落ちぶれ,妻はもう以前ほど彼を愛していない,と言った
何げない物'からこれほど豊かな興味を与えられる人(ホームズのような人)にとって,
人生が退屈であるはずはないだろう。
田舎を散歩している途中で気づくであろう,
種々の事物について,考えてみるとよい。
ある人は'小鳥'に興味を持つだろう。
ある人は'植物'に,ある人は'地質'に,またある人は'農業'に・・・,といった具合である。
これらのなかのいずれであっても,もしあなたの関心をひけば,(あなたにとって)興味あるものとなる。
そして,他の事物が同じなら(条件が同じなら)
これらのいずれか1つに興味を持っている人は,
興味を持たない人よりも,世界によりよく適応しているのである。
ようするに、
好奇心と熱意を向けられるものが多いほうが、
そこから得られる楽しみや快楽を知っている分、幸福である
ということです。
話変わります。
今日の帰りは思い付きで
路線バスに乗って帰った。
大森駅前の西友で買い物した後
道を歩いていたらちょうど始発待ちの
バスが止まってたので思い付きで乗車。
画像のとおりガラガラの車内。
暴露療法の観点では
何気なく思いつきで乗れた、てのが重要なんです。
発作起きませんでした。頓服も飲みませんでした。
明日は通院日なので報告するネタができたのは
うれしいです💦