今回の記事は完全に

与太事、妄言の羅列です。

そしてむやみに長いので本当に無理に読まないでいいです

 

お盆だからか、Yahooでこんな記事を見た。

 

自分は前から何度もブログで言及してるように

骨も位牌も残すな、というスタンスです。

しかし結果論的に孤独死するであろうわが身とその骨は

結局公共の手で処理されて骨壺が残るだろう。

(行旅不明の骨壺として役所の一角の薄暗い倉庫に保管されるか

無縁仏としてどこぞの霊園に合祀されるか、その辺りは不明)

そしてそういう扱いでも未練はないし化けて出ない。

ようやくこの世とおさらばできたのに、化けて現世に残るなんて嫌すぎる。

何らかの「恨み」や「心残り」より、「現世で生きる労苦」から解放された喜びが

大きすぎて、すぐ成仏できると思う。

 

上記yahooの記事のように大仰なお墓の維持管理が時代にそぐわないものに

なってきてるというのはいいことだ。お墓をそのまま維持すると

狭い日本、そのうち平野部が全部霊園になっちまう。

いろんな自然葬があるけど、いちばん「自然」に弔ってくれるのが

「海洋葬」(海に遺灰をまく)しかないのも選択肢が狭いね。

樹木葬は実質骨壺が残るし(1本の木をシンボリックに合祀するだけ)

葬式会社のHPでみたら、海空山全方位対応で自然葬がある。

けど空の散骨って実質海の散骨と変わらないし

風向き次第で超迷惑な行為になりそう(あと高いよ

 

遺骨の処理に困ったので粉末にして、仲が悪い隣家の庭に混ぜた、とか

そういうエクストリームな事件が起きる前に、もっと国主体で

焼いた後の骨の始末について選択肢を広げてほしい。

「嫌がらせとしての・呪う行為としての散骨」がそのうち起きても知らんぞ。

生前持ち歩くドナーカードや角膜や臓器提供の意思表示カードみたいに

焼いた後の骨も意思表示で法的に効力が発揮できたらどんなにいいか。

 

余談だが、自分の父親は自死したが角膜提供ドナーに登録してたので

法検視が済んで自宅に遺体が戻るやいなやすぐに角膜採取の医師が来た。

当人死亡後にすぐ連絡がいくように法整備されてるのね、とその時感心したな。

そして角膜摘出はご家族は外で待機、と摘出するところは見せずに

(個人的に見たかったが)摘出後は眼球の代わりに模した玉を眼孔にはめて

さらに瞼を接着するという。自分の父親の遺体も、瞼を接着したっぽい。

軽くまぶたを触った程度だけど固く閉じられたままだった。

*自分の父親になんて不敬な、罰当たりな!と思うなかれ。

そんなら初めから父親は自死しなければよいのだ。あまりに唐突な自死の知らせで

頭がどうにかなってたらしく、「そういう非日常での体験」をいろいろ経験する事で

父親の死という衝撃から無意識に自分の精神を守ってたのかもしれない。

そういう意味でも自殺はよくないね。

当人の命と道連れに近親者の精神の一部も一緒に死なせてしまう。

 

余談が過ぎた。骨について。

チベットの鳥葬なんて肉を鳥に食わせて、残った骨はどうするんだろう?

大学生の頃、仏教専攻してたので昔の古いフィルムで貴重な鳥葬の様子を

視聴したことがあるけど、骨はそのまま残ってたな。

(また余談だけど、世話人が遺体を切り分けるまでそばできちんと並んで

待ってるハゲワシがお行儀良くてほほえましかった)

ゾロアスター教では専用の塔で鳥に食わせて、

残りの骨は吹き抜けの穴に放り込むから合理的だが。

ガンジス川のほとりで遺体を焼いて川に流すのも、

骨は海にちゃんと届くのだろうか?海についても骨はかなり長く残りそうだな。

やはり焼いて遺灰を自然に戻すのが一番地球にとって優しい気がする。

 

それに比べキリスト教(カトリック)はねぇ…

パリの地下にあるカタコンベ(カタコンブ・ド・パリ)や

チェコのセドレツ納骨堂をごらんよ。自分のような

「骨を残すな」という希望を持つ者にとっては寒気がする光景だ

偉人や聖人や地位がある者の遺骨ではなく分別なく市井の人々の

数万人分の骨、というのが嫌すぎる(グロいので画像は貼りません)

 

まだいろいろ与太話を書きたいがキリがないのでここまで。

本当は骨と時代ごとの死生観の文化人類学的な私見と

オカルト観点からの考察も述べたかったが…