今日は父の命日だ。
かなり昔の今日、父親は自死した。
自死遺族なわけだけど、
よく見に行くブログでも何人か身近な方や親族を自死でなくした
自死遺族の方がいらっしゃる。
どの方もそうだし自分もそうだけど、
自殺することによって周囲に与える影響は計り知れない。
いつまでもいつまでも尾を引く。
いくら時間がたっても「たられば」の思いと同時に悔悟の念が湧いてくる。
自分の場合、父が死ぬ前日に「一緒に外でご飯食べよう」と連絡を受け
某ファミレスで父と二人で夕食をとった。
父はその時点で既に死ぬ覚悟は決めてあったんだろう、妙な朗らかさと明るさで
急に昔話をしてくれた。自分もその奇妙な朗らかさと不思議なほの明るさ
(今から自殺する人間が明るいって変に思われるかもしれないが
死ぬ覚悟が決まって迷いがなくなり吹っ切れたんだろう)
『あれ、へんだな…』とは思った。
急に若い頃の昔ばなしなんか話してなんだろ、とは思った。
何か良いことがあった時のようなテンション上がった状態とも違う、静かで仄明るく柔らかい雰囲気に満ちていた。あの時の不思議な柔和な雰囲気は今でも覚えてる。
でもそのあまりに穏やかで柔らかい雰囲気についに「どうしたの?」と
聞き出せなかった。
次の日の朝、父の死の知らせを受け取ったときにようやく
その奇妙な明るさの原因を知ったわけだけど…。
自分は『故人が生前最後に会った人物』なので、警察が来てから
(病死ではないので事件性の可能性も考慮して自殺の場合は警察が入る)
特に色々事情聴取された。「なにか変わった事はありませんでしたか?」と
聞かれたが、まさか昨晩の『死ぬことを決めた人間の吹っ切れた柔和な明るさ』を
話すわけにもいかずそのことは黙っていた。
(すでに事件性のない自殺と判断されてたのでいまさら言って何になろう?)
*話がずれるけど、この警官から色々と状況を根掘り葉掘り問いただされる、
というのも地味に自殺が周囲に与える迷惑事の一つだ。警官も嫌な役回りだと承知してるのだろう、すごく気の毒そうな顔していた。
当時のバタバタして右往左往していた状況を思い出しても、
いまだに現実味がわかない。
オスカー・ワイルドの「青年のための成句と哲学」というアフォリズムの中に
『人生の一大事はしばしば人を呆然とさせる。後から振り返ると
絵空事のようにさえ思えてくる(後略』という言葉通りだ。
以下はこのブログの重い話題の時には何度か書いた文章だけど。
死ぬぐらいなら蒸発してほしかった。仕事も家族も周囲の人間関係も
無責任に放り出して失踪して欲しかった。失踪だったら、
今こうしてブログ書いてるときにも、ちょっと空を見て
「こうやって父親のこと書いてるけど、今頃どこで何やってんだろなー」
って想うことはできるから。そう思えるだけで十分救われる。
少なくとも自殺に比べれば。死なれてしまうと、そう思うことすらできない。
ひたすら「あのとき、ああだったら」・「あの時こうしてれば」という後悔で
じくじくと心が蝕まれる。
自分も年を取って、だんだん父親が死んだときの年齢に近づいてきたけど
記事書きながら思い出すのは、やっぱりあの時死んだ・あの時のままの父親だ。
気障な言い方になるけど、父親の思い出が決着がつかないで未完のまま
宙ぶらりんになっているので父親という名の本をいつまでも閉じることができない。
遺族にとっては『呪い』に近い。
*記事のカバー画像は最後に父と夕飯を食べたファミレスのストリートビュー画像