なんやかんや戻ってきてしまう場所は?

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精神科(心療内科や神経科含む)

受け狙いではなく客観的に見て本当にそうだから困る。

何度も鬱再発を繰り返し今では複数の精神疾患持ちになった自分にとって

精神科の待合室に漂うあの独特な寂寥感と殺伐感がないまぜになった

空気に触れると、ああまたここに戻ってきたかと力無い溜息を心の中で漏らす。

あまりに精神的に病んでる時期が長すぎると、かえって元気溌剌な自分に

違和感を感じる。どこかしら不調を抱えてる自分に妙な居心地の良さを感じる。

(以前にも書いた事だけどこういう二律背反的な精神状態は軽視できない)

 

さて「男はつらいよ」の日だそうだけど、自分は2,3作しか見てません。

長く続いたシリーズだけどファン以外は1作でも観てればいいほうでは?

堅苦しい言い方になるけど、この映画は日本特有の家族構造や「甘え」の心理

の表現は実に上手く描いてる映画だと思います。

寅さんは実に愛すべきダメ人間だけど故郷(浅草のとらや)に囚われてるよね。

そしてそれが自身も周囲もスポイルしているよね。

その事は6作目の「男はつらいよ純情編」のラストで寅さん自ら吐露している。

(当該シーン。夜の柴又駅で電車に乗って、妹さくらと別れる場面

さくら「あのね、お兄ちゃん。辛いことがあったらいつでも帰っておいでね。」

寅次郎「そのことだけどよ、そんな考えだからオレはいつまで一人前に…

さくら、故郷ってやつはよ、故郷ってやつは…」

 

寅さんがその続きを言おうとしてる時に電車ドアが閉まり発車音にかき消されてしまい、さくら(と観客)はそこから先を聞けず寅さんを乗せた電車は去って映画は終わる。こういう「秘すれば花」というか浪花節的演出も愛された理由の一つか。

 

 

どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま

送っていって暮しているのであるが、
それでも、なんとしてもどうにもならなくなってしまう場合がある。

そんな場合になってしまうと、私は糸の切れた紙たこのようにふわふわ生家へ吹きもどされる

(太宰治「玩具」より)

 

そういえば京都に住んでた高校生の頃、学校で禅僧の講話を聴いたときに

その坊さんが「故郷っていうのは良いところも悪いところもあります。君たちも

そのうちわかるかもしれません」としみじみ話してたのを思い出した。

 

 

現在の自分は故郷は完全になくしている。実父が死んだときに借金のかたで

実家も財産もすべて整理され、帰るべき場所がない。姉は横浜に住んでるし

母は寝たきりでリハビリ施設にいる。倒れる前まで住んでたマンションは

すでに整理売却、リハビリ施設での経費に充てているという。だから仮に

用事があって故郷に行ったとしてもビジネスホテルに泊まることになる。

ただ幼少のころ住んでいたという思い出がある場所なだけだ。

しかも思春期以降は京都に住んでたので、思い出の密度や濃さでいえば

京都のほうがよほど愛憎半ばする思い出の土地だ。

きざな言い方すれば仏文学でいうところのデラシネ(deracineだ。

相続や世襲に関する些末事から解放されてるのが唯一の利点か。

 

物理的な・土地としても故郷のほかに、精神的な「魂の故郷」というのもある。

自分にとってはこちらのほうがよほど重要だ。それが何かはヒミツ。

 

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