これはもう、いろいろある。
若いころから何度も鬱になったり寛解したりを繰り返していくうちに
どんな思想や認知療法を持ってきても、拭い去れないほどの。
瞑想や座禅やヨガやマインドフルネスでも浄化できないほどの。
(魂に焼印されたかのような)厭世観・虚無感・無常観がある。
無常観や多少の厭世的姿勢そのものはお釈迦様の時代から
古今東西の賢人・聖者が説いてるので慌てて付け加えると
『必要以上の』厭世観や虚無感で考える癖が板についてしまったのだ。
おそらくこのせいで自分が損した場面は1度や2度ではない。
自分が受けるべき当然の権利としての、「何か得するコト」を
拒絶してしまうのだ。
『駄目な男というものは、幸福を受け取るに当たってさえ、下手くそを極めるものである』
『弱虫は、幸福をさえおそれるものです。
綿で怪我するんです。幸福に傷つけられる事もあるんです』
上に記した2つの言葉はともに太宰治の作品から。
世間で「暗い作風」と揶揄される芸術が好きだ。
明るさよりも陰影が強い、後ろ向きな姿勢の作品が好きだ。
これが2つ目の弊害。正確には弊害というか特性と言い直してもいいかもしれない。
ここで具体的な作品名やアーティストを挙げはしないが。
あまりに鬱に親しみすぎていると、どこかしら調子が悪かったり
不幸な状況だったりしても、それに妙な居心地の良さを感じてしまって
努力して改善できるのに、それを放棄してしまう。
最大のデメリットはこれだろうか。変化や進化を拒否して
そのまま鬱の泥沼に沈み込んでいくに任せて何もしないという。
セルフネグレクトとは、また違う。無抵抗主義というわけでもない。
(ただこれも、めんどくさいからという幼児退行的な理由ではなく
自分なりに苦しんで出した答えなので説明しようとすると
えらい手間がかかる💦)