なぜ私はこの道を選んだのか。
そんなトピックについて考えることは誰しもよくある。選んだ自分を正当化するのか、道に対する解釈を整えるのか、はたまた「答えなんてない」と刹那的なニヒリストになるのか。人それぞれなのが正常な社会の証なのだろう。

先日、今年に入って初めて酒を飲む機会があった。強引に連れていかれる形ではあったけど、伝染病なぞ関係なく孤独をやっている自分にはありがたいわけで。
飲みの場ではそこそこに話を盛り上がらせることに成功して、ツレも楽しそうにしていた。こういうとき感じるのは、相手が楽しいか自分が楽しいかはトレードオフの関係になりがちだということ。そして、それがトレードオフにならないような人は絶対に手放してはいけないということ。

それはさておき、ふと隣の卓の方から「一緒に飲みませんか」とのお誘い。そこで飲んでいたのは、近くの外国語大学の教授や留学生、院生の方たち。主にロシア文学関連の。ロシアと言ったらドストやトルストイ、バルザック。これまで自分の内に秘めてきた物語たちを吐き出す場であると、本能的に認識した私はマシンガンのように問いをなげかけてしまった。さすがは先生、モジャモジャの髭をなでながら一つ一つ答えをくれる。楽しい、嬉しい、あの充足感は初めて辞典を手にした小学生以来と言っても過言ではなかった。一方で、私は”答え”が欲しかったのか、本当にドストが反ユダヤであったと知りたかったのか、そういう思いも芽生える。これはきっと対話でしか得られない思いだ。
その場にいた人はみんなタバコを吸った。さすがは文学の人々である。効率性にしばりを受ける我々ひいては世間との違いはまさにそういったところに現れる。そんな道を選ぶべくして選んだように感じられる彼らを、嫉妬に近い羨望の眼で見てしまう。が、ネット上のそれとは違って、まったく清々しいものだった。

話が煮詰まってくると、人生相談タイムに入った。各々が自分の抱える悩みを、できる限り抽象化して話す。煙のせいで周りの顔が霞むような中、山手線ゲームのように悩みに対するアンサーをそれぞれが提示していく。酔っ払って何をいってるのかわからない人。そもそも知識不足すぎて話についていけてないのにそれを隠すのに必死な私のツレ。独自の言葉でユニークな何かを伝えようとしていたのかも、しれない。でも私はその場を”つまらない”と感じてしまうことになった。それは「みんなそう」というアンサーの多さによる。「みんなそう」という時点で無個性な社会を前提としているわけだ。というか、悩みを聞いてその答えを出そうとするヒトの傲慢さも気に入らない。私たちは社会の中にいる以上、相対的な存在でしょう。存在だけでなく才能も環境も、何もかもだ。その悩みだけが絶対的なものなわけがない。「みんなそれぞれ」なのだ。「みんなそれぞれ」なことだけが「みんなそう」なこと。そして「わたしはこう」であることを受け入れなければならない。そのためにランダムかつ正確に「あの人はこう」なことを知ることも必要なのだ。そうして初めて不可能性のばらつきを知ることができる。


人生の中で本当に「みんなそう」な悩みがあれば、個々人の可能性は無限大だ。どんな道だって選ぶ価値がある。しかし、実際はそうではないと思うわけ。なぜなら私たちの未来は不可能性によってこそ規定されるはずだから。なのに可能性というあるかもわからない宇宙のような存在に頼ってしまうことが諸悪の根源なのかもしれない。
自身の不可能性とは我々の相対性と結びつく。つまり対話の中からしか不可能性は浮かび上がってこないということだ。
あの日、李徴が人里を離れなければ虎にならなかったはずでしょう。